イウヨン論文(および講義)への批判 ー「強制徴用」という言葉に対する見解ー

     1、強制徴用という言葉について

       ーイウヨンの攻撃的な主張を読むー

 

反日種族主義』の中のイウヨンの書いた部分「5強制動員の神話」についてまずテーマにしようと思う。日本語版ではP66から74までだ。その中に「強制徴用の虚構」という小見出しがあるが、そこで「強制徴用」という言葉を攻撃してる。

また講義動画でも同様なことを述べている。まずそれを示そう。

 

 

 当時は「強制連行」という言葉すらありませんでした。特に強制徴用という言葉、今回大法院の判決にも登場したこの言葉が、一体どのような理由で出てきたのかを知っておく必要があります。まず、強制徴用という言葉、そのような概念は、もともとあり得ないものです。徴用自体が強制だからです。強制徴用という言葉は、我々韓国人がたびたび使う「駅前の前」と同じです。「駅前」に「前」の字が入っているので、後ろの「前」は必要の無いものです。同じく強制徴用という言葉にも「強制」という言葉は必要なく、徴用だけでよいものです。

 それなにになぜ1965年以来今に至るまで、韓国の研究者、政府、言論、市民団体は強制徴用という言葉に執着し、それを使ってきたのでしょうか?徴用は戦争が終わるまでの数か月間だけ実施されました。それを明確に認めてしまうと、反日種族主義の歴史学に困った問題が生じます。1939年9月から1944年9月までの、より数の多い労務移動が、労務者の自発によるものになるからです。反日感情を広く伝播させるためには、徴用実施以前にも朝鮮人が自身の意思とは関係なく強制的に連れて行かれ、労務移動の全てが日帝の強制だった、と主張する必要がありました。

 つまり、徴用のような強制性を1939年まで遡って、その時期からの全ての移動は強制だったと主張したかったのが、彼らの腹の内でした。こうして作られたのが「強制徴用」です。したがって、この言葉には、単なるミスだとする言い訳では見逃すことが出来ない、巧みな歴史的事実の誇張と歪曲が含まれています。私は、こんなにも深刻な概念的操作を研究者という人たちが何故に行えたのか、どうしても理解できません。

(『反日種族主義』p69)

 

講義動画はコレである

 

 

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 https://www.youtube.com/watch?v=CC4sDzrlNCQ&list=PLIHgNlD6TJLagCj9dXgBf0bn6djh7C82M&index=36

 


5. “強制徴用"の神話


しかし「強制徴用」という言葉は、「1965年の朴慶植(パク・キョンシク)以来」使って来たわけではないし、そもそも「研究者が造った概念」でもない。

ほぼ全てがデタラメである。ただのイチャモンと言っていいだろう。

しかし、こんな事を書く以上、この人ーーイウヨンは、鎌田沢一郎の回想『朝鮮新話』さえ読んだことがない・・・という事なのだろう。

 

 

 

 

       2、1950年の著作に使われた「強制徴用」

鎌田沢一郎の『朝鮮新話』でよく引用されるのはこの部分である。

 

もつともひどいのは労務の徴用である。戦争が次第に苛烈になるに従って、朝鮮にも志願兵制度が敷かれる一方、労務徴用者の割当が相当厳しくなつて来た。 

納得の上で応募させてゐたのでは、その予定数に仲々達しない。そこで郡とか面とかの労務係が深夜や早暁、突如男手のある家の寝込みを襲ひ、或ひは田畑で働いてゐる最中に、トラックを廻して何げなくそれに乗せ、かくてそれらで集団を編成して、北海道や九州の炭鉱へ送り込み、その責を果たすといふ乱暴なことをした。但(ただ)総督がそれまで強行せよと命じたわけではないが、上司の鼻息を窺ふ朝鮮出身の末端の官吏や公吏がやつてのけたのである。

 

 

 

(鎌田沢一郎『朝鮮新話』1950)(元宇垣総督政策顧問、後総督府機関紙「京城日報」社社長)

 

明らかに労務動員の拉致、強制性を述べているのだが、問題はこの部分ではなくp323でこう書いていることだ。

 

朝鮮民衆に誤った強制徴用に対するお詫心を表現し

(鎌田沢一郎『朝鮮新話』p323)

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この著作は、1950年の著作である。

戦後、5年しか経ていない。

 

どういう事か?というと朴慶植(パク・キョンシク)が『朝鮮人強制連行の記録』を著すのは1965年だが、その15年も前にすでに、鎌田沢一郎が労務動員に関して強制徴用という言葉を使っているということなのだ。鎌田沢一郎は、南次郎時代から小磯時代の労務動員を指して、強制徴用と呼んでいるのである。1944年以降の法的な徴用の事を言っているのではない。「募集」とか「官斡旋」とかいう時代の話である。

 

ちなみに、鎌田が言及している「朝鮮民衆への小磯総督の詫心」とは、1944年4月13日の《朝鮮総督府官報》掲載の訓示の事であろう。しかしこれは官僚を諫めた訓示であって「朝鮮民衆への小磯総督の詫心」と解釈できるだろうか?

それはともかく、この日の官報には田中武雄(政務総監)の訓示も掲載されており、これには強制供出という言葉が使われている。

 

官庁斡旋労務供出の実情を検討するに、労務に応ずべき者の志望の有無を無視して漫然下部行政機関に供出数を割当て、下部行政機関もまた概して強制供出を敢てし、かくして労働能率低下を招来しつつある欠陥は断じて是正せねばなりません

 

 

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 (動員の強制性は、総督府官報からも知ることができる)


イウヨンは「1965年(の朴慶植)以来今に至るまで、韓国の研究者、政府、言論、市民団体は強制徴用という言葉に執着し、それを使ってきた・・」と述べているが、総督府自身がすでに「強制供出」という言葉を使っており、「強制徴用」という言葉も朴慶植(パク・キョンシク)が発明したのではなく、1950年にはすでに鎌田沢一郎が労務動員に関して使っていたのである。

 

イウヨンは「強制徴用という言葉、そのような概念は、もともとあり得ないものだ」というのだが、それは鎌田沢一郎に文句を言っているのだろうか?

 

後に述べるが、日本の国会でも《 参議院 外務委員会 第8号 昭和34年(1959年)11月30日》において、労務動員を「強制徴用」と表現している。

 

私の見たところ、イウヨンは、「労務動員における金銭報酬」という部分をさらにごく一部の事業所にのみ特化して調べており、労務動員に関して総合的に資料を集めたり、関係諸論文を読んだりしてしていないのだろう。

だからこういう笑える解釈を書いてしまう事になる。

 

正直、論説全体が穴だらけである。

 

 

 

 

追記2020-6-17 註)

敗戦直後の1945年12月8日の『京城日報』に「強制徴用」の語が使われていることはこのサイトが言及している。

https://katazuketai.jp/two/pg2834426.html#5top

京城日報』1945年12月8日// 外村大『朝鮮人強制連行』(岩波新書)p199

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        3「強制徴用」という言葉の歴史

   ー「強制徴用」という言葉は敗戦直後の日本の帝国議会で使われたー

 

             ◇

労務動員の話ではないが帝国議会では戦後すぐの12月8日小笠原三九郎が炭鉱の坑木について「強制徴用」という言葉を使った後

 

第89回帝国議会 衆議院 予算委員会 第8号 昭和20年12月10日

日本進歩党の安藤覺が以下の発言をしている。

発言URLを表示

○安藤(覺)委員 願はくは其の愼重なる考慮の時間を出來るだけ早められまして、短期間に御決定相成つて、斯うした方向に御導きあらんことを熱望して已まないのであります  次に私は治安問題で具體的な問題に付て御尋ね致したいのであります、日本が大東亞戰爭に入りまして第二年目、即ち昭和十八年三月に、急激なる日本の軍需工場の擴張に伴ひまして、非常なる勞務者の不足を感じて參りました、此の時に圖らずも、もと神奈川縣高座郡海軍工廠に於きましては、臺灣人の青少年七千八百名を内地に連れて參りまして、さうして此處の工員として使用致すことになつたのであります、此の時に彼等臺灣の青年達の言葉を其の儘に藉りて申しますれば、一應是等の臺灣青少年達が、志願の形を以て内地に送られて來たことには相成つて居りますが、其の事實と致しましては、全島各中學、小學校等に大々的なる厚生省の要員大募集を致しました上に於きまして、當時の総督府は各種の學校に對し人員割當を行ひ、事實上に於ける所の強制徴用をしたのであります、即ち各學校長に對しまして、是等の青少年達が志願的形を執らない限り卒業免状を與へないとか、或は將來に於ての非常な出世の妨げになるとか云ふやうな威迫的な言辭を弄して、事實上志願せざるを得ざる姿に追込んで連れて來た、而も其の狙はれたる所の青少年達は、臺灣に於ける所の中流家庭以上の、而も學校に於ても成績優秀なるものを多く選んで連れて來た、斯う云ふ事實があるのであります、之に對しまして終戰と共に、此の青少年達七千八百名を如何に扱ふかに付ては、當時海軍に於きまして色々と苦心を致したことではありましたでせうが、其の現實を見ますると、全く放任された儘で、何時歸れるやら、而も其の日々の生活は殆ど終戰當初に於て與へられました所の物資に依つて、後は勝手に食つて行けと云ふやうな姿に於て放任されましたる爲に、茲に當然起りまする所のものは、是等青少年達が自己の生活を維持して行かんが爲の掠奪行爲であつたのであります、固より此の青少年達七千八百名が、悉く擧つてとは申しませぬ、其の中の一部ではありませうけれども、此の高座海軍工廠の所在致しまする大和、澁谷、綾瀬、海老名各町村に亙つての終戰以來十一月二十二日までに行はれましたる所の、物資の掠奪に付ての數を大雜把に申上げますると、甘藷に於て二萬八千貫、野菜に於て七千貫、鷄に於て百七十羽、自轉車に於て十五臺、豚に於て十二頭、山羊に於て十四頭、米麥に於て七十石、斯うした數字が擧げられて居り、此の結果同方面に於ける所の居住者達は、戰々兢々として平和なる業務を營み得ない状態にあるのであります、然らば是等に對して警察當局はどうして居るかと申しますると、警察當局亦血みどろの姿を以て治安の維持に任ずべく努力して居るのであります、此の地方を所管して居りまするのは大和警察であります、此の警察署員署長以下擧げて五十名、此の擧げて五十名の警察官が七千八百の若者達を取締つて行くと云ふことは、現實に於て全く不可能であります、而もあの地點に集團して掠奪が現はれた、此の倉庫を今襲撃されて居ると云ふ時に、急遽隊伍を組んで行きまする時には、そこえ大乱鬪が演ぜられます、先般も二名の警察官は遂に拉致され、一名は辛うじて途中に於て脱走致しましたが、一名は遂に本部に連込まれ、慘憺たる負傷を負はされたのであります、又之を奪還すべく乘込みました所の中村主任警部以下四十何名の人々は、大乱鬪の結果、中村主任警部以下殆ど身に傷を負はないものはないと云ふ姿を示したのであります、斯う云ふ實情にあります時に、先程前提として御質問申上げましたが、如何に内務大臣が治安の維持には飽くまで責任を以て任ずる覺悟だと言はれても、現實は不可能であります、昨今稍稍此の點に付きまして進駐軍に連絡懇願致しました結果、進駐軍の協力を得まして、其の直接なる治安に於ては下火の傾向を辿つて來ては居りますが、單なる暴行、乱暴、斯う云つたことに於きましては、其の方面を走つて居ります所の小田原急行、或は相模鐵道、神中線と云ふやうな中に於て、頻々として行はれて居るのでありますが、是等に付て何等か具體的なる御報告を内務大臣は得て居られますか、どうでありませうか

 

台湾の動員について述べているが、「強制徴用」という言葉がそれなりに使われていたことが分かる。

 

             ◇

日本の国会では

第1回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第9号 昭和22年10月14日

緑風会の淺岡信夫議員や北條秀一議員が「強制徴用」という言葉をすでに使っている。

 

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第1回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第12号 昭和22年11月11日

 でも緑風会の岡元義人が使用し、1950年(昭和25年)までに12回の国会で「強制徴用」が言及されている。これらは、決して「朝鮮人労務動員」を指して「強制徴用」と述べているのではないが、こうした言葉がすでに使われていたことは特筆に値するだろう。

 

 

 

 

 

           ◇

朝鮮人労務動員関係で使った国会の例>

 

第33回国会 参議院 外務委員会 第8号 昭和34年(1959年)11月30日「強制徴用」 加藤シヅエ議員と藤山愛一郎大臣が使っている。

 

加藤シヅエ君 それでは外務大臣は日韓会談の交渉中に、その当時強制徴用であったというようなことを向こう側から何かお聞きになりませんですか。


国務大臣(藤山愛一郎君) むろん向こう側からは強制徴用であったとか、あるいはいろいろなことを言っている場合がございますがしかし、日本側として戦時中に行なわれました朝鮮人の内地におきますいわゆる日本人として内地に移住したという限りにおいて、それが全部いわゆる内地人と別な扱いをしなければならぬというところまで私は実は考えておらぬのであります。特殊な何かケースがありましたら別でございますけれども、いわゆる一般的に徴用したということについては、それは内地人と変わらないという建前をとるべきではないかというのが私の考え方でございます。しかし、御指摘のように、いろいろな問題が起こっているからとか、こういう事実に反したということがあるのだということでありますれば、そういう特殊な問題でこれは扱うべき問題であって、一般的な問題ではないというふうに考えておるということを申し上げます。

 

 

            ◇

1972年8月号の『潮』で志願兵について述べた福田恒夫元陸軍大尉もまた「志願という形式をとっておりますものの、その実は強制徴用であったことは否めません」と述べ、「強制徴用」という言葉を使っている。

・・・(略)・・・志願する者は、きわめてごくわずかであったようです。その結果、各道に割り当て制を実施し、各府、巴、面長(市町村長)ならびに警察、駐在所より勧誘の結果自己の意志からではなく、周囲の状況からやむなく応募したという実情を、当時その人たちから聞かされておりました。当時の府、巴、面長や警察の勧告がたんなる勧告にすぎざるものでなかったことは想像に難くありません。志願という形式をとっておりますものの、その実は強制徴用であったことは否めません。・・・(略)・・・

   福田恒夫元陸軍大尉、釜山教育小隊長、シンガポール俘虜収容所員 (藤崎康夫天皇制に忠誠誓わされ、祖国追われた朝鮮人戦犯」「潮」1972年8月号 p208)

 

 

           4、「強制連行」という言葉に対する攻撃を「強制徴用」という言葉に対する攻撃に転用したイウヨン

 

 

 日本の右派論壇では、朴慶植(パク・キョンシク)が『朝鮮人強制連行の記録』で使った「強制連行」という言葉を批判攻撃してきた。