慰安婦民族比率資料を考察する
伊藤桂一『大陸をさまよう慰安婦たち』 「新評」1971-08 掲載
「日本人の慰安婦は数の上ではもっとも少なかった」「最大の貢献をしてくれたのは量質ともに朝鮮人の慰安婦であるだろう」
(伊藤桂一=自身も徴兵され中国で慰安婦の世話係のようなことをしていたが、戦後作家として戦友会に出入りし、広範囲に元将兵の話を聞いた)
『戦場と記者 - 日華事変、太平洋戦争従軍記』冬樹社1967
小俣行男(読売新聞・従軍記者)
p172
応山
「武漢作戦終了後、第三師団が応山に駐屯していたため、『特殊慰安所』がつくられた。家は十数軒、ここには珍しく日本の若い女がたくさんいた。」
『歴戦1万5000キロ』中公文庫2002(単行本、中央公論新社1999)藤崎武男
昭和16年7月に、陸軍士官学校を第55期生として卒業。歩兵第227連隊に赴任、野戦小隊
長、初年兵教官、連隊旗手、第一中隊長
p27
中国
「大隊本部以上の上級司令部のある駐屯地には、たいていピー屋があって営業していた。だから、私の中隊のような陣地勤務の将兵が《遊ぶ》となると、これら本部の所在地まで出張しなければならなかった。慰安婦の多くが朝鮮半島出身者で、日本人はよほど治安のいい地区でないといなかった。」
『戦争奴隷』 1967津山章作
p231
湖北
「戦地の娼婦は9割以上が半島の女であった。あとわずかが内地の女、さらに少ないのが中国人だった。」
鈴木卓四郎
p59~p61
中国・南支軍占領地
「此の1500人前後の7割以上は半島人(朝鮮人)婦女子であったことは驚くより外はない」
つかこうへい
「私の知っている範囲では、やっぱり朝鮮半島出身が圧倒的に多いですよ。」
『戦旅の手帳』
伊藤桂一 1986 直木賞作家 『落日の戦場』『静かなノモンハン』などの作品あり
蕪湖
「なんとなしに朝鮮人慰安婦たちの相談役みたいな仕事?をしていて、・・・・・20人ほどい る女の中で気質の悪いのはいなかった。」
桑島節郎
1942年2月より満4年間にわたり一兵士として中国。華北戦線
p247~p250
中国・華北
「兵隊の性欲処理のために部隊によっては慰安婦をかかえ、慰安所を設け、性に飢えた兵隊たちの欲望を満たしていた。慰安婦は朝鮮人と中国人が多かった。」
『Gパン主計ルソン戦記』 文芸春秋1986
金井英一郎
昭和18年入営し、昭和19年6月、東京陸軍経理学校を卒業、満州・孫呉に
『1932日間の軍隊』東京図書出版会2005。
上斗米正雄 昭和15年、現役兵として関東軍に入隊。その後、支那派遣軍に転属し、敗戦まで中国各地を転戦。
p123~p125
昭和17年4月、満州・綏遠
他の著作 『シベリヤの歌』
p78 満洲 間島
興亜館第一第2
「いわいる「ピー」と呼ばれる女性達はほとんどが朝鮮娘であった。」
朝日新聞山形支局
土屋は、昭和6年、関東軍独立守備隊に入隊し、9年から敗戦まで関東軍の憲兵として勤務
「チチハル市には、軍専属の慰安所が3か所あった。2か所は朝鮮人女性で、残りが日本人女性だった」
『わが青春の海軍生活ー素顔の帝国海軍・別巻』 海友堂1981。
瀬間喬
昭和6年、海軍経理学校卒業、以後海軍勤務。海軍主計中佐
昭和13年ころ
中国・南京
陸軍将校の慰安所
『ああ応召兵』 講談社1978
故吉田慎一の6年間の陣中日記を著者がまとめたもの
津村敏行
吉田は、昭和16年10月、陸軍に召集され、ジャワ、ラバウル、フィリピン、南支、ビルマ、仏印などを敗戦まで転戦。
p127
昭和18年、広東市
「慰安所も大々的に開かれていて、朝鮮の女性が大部分であった。」
『南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて』社会評論社2002
松岡環編
南京戦に従軍した元兵士102人の証言
p276
中国
(第16師団歩兵第33連隊第3大隊兵士の証言)
昭和15年、現役召集を受けた浅見昇一氏の証言)
p177
中国・盂県県城
「朝鮮人慰安婦がいる慰安所が1軒あり、浅見さんも一度行ったことがある」
『モリトシの兵隊物語』青村出版社1988
森利
昭和16年現役兵として野砲兵第1連隊に入隊し、渡満。昭和19年、鉄道13連隊に転属し、中国各地を転戦
p311
中国
『変転せる我が人生』日本文化連合会1973
藤村謙
昭和12年7月、熊本野砲兵第六連隊長となり、第六師団内にあって、北支、中支に出征、南京、漢口などの会戦に参加
昭和12年12月以降
中国・蕪湖。
「日本女性と朝鮮人女性とが来たが、後者の方が一般に評判が良いので逐次之に代えることにした。」
『51年目のメッセージ』旭川冨貴堂1996年
戦後50年記念「私の戦中・戦後」公募手記集編集委員会
p82
中国・輝県
「それらの棟に『お姐さん』が朝鮮女性が8割、中国女性1割、日本女性0.5、フィリッピン女性0.5の割合であった。」
『日本一歩いた「冬」兵団ー第37師団・一軍医の大陸転戦記』葦書房1993
江頭義信
「冬」兵団ー第37師団、第3大隊
河津 固鎮 稷山
「我が第3大隊地区では、河津と固鎮と稷山に慰安所があった。女性は、朝鮮半島出身の乙女達が多かった。運城には日本女性もいたが、ドサ廻りの我々には縁がなかった」
『兵隊画集』番町書房1972
富田晃弘
昭和19年10月、満州要員として、第12師団の西部第46部隊に入隊し、満州に派遣される。昭和20年1月、台湾に移動
p37
昭和19年、満州
「源氏名は『椿』とか『千鳥』とか『深雪』などと古風であったが朝鮮人がほとんどであった。初年兵用のピイ屋には満人の婦(おんな)がいた。
国境の町三ブン口(東寧)は昭和13年ごろ大勢の苦力によって開発された」「町にピイ屋が15軒ほどあった。日本人の婦(おんな)がいた。ピイが足りずに下士官の喧嘩が絶えなかった」
『シッタン河脱出作戦』早川書房1975
ルイス・アレン
p144
昭和20年5月
『なは・女のあしあと―那覇女性史(近代編)』ドメス出版、1998年発行
(P458)
「朝鮮の女性に比べれば人数は多くはないけれど、台湾の女性たちもまた沖縄で、日本軍の慰安婦にされていた」
『ビルマ敗戦記』図書出版社、1982年
浜田芳久
昭和17年2月、入隊し、18年3月、満州・東安市の第17野戦貨物廠に主計の見習士官として転属され、19年5月、野戦重砲兵第5連隊に転属し、大隊付主計少尉としてビルマに派遣される
p32~33
大陸の奥地や南海の島々
「満州では部隊がいるところには必ずといっていいほど慰安所がつくってあり、たいてい朝鮮人の慰安婦がいた」「朝鮮人の慰安婦はタイ、ビルマにもきていた。
日本軍将兵と軍属に性のサービスを売るこの施設は、フルネームでは『皇軍特殊慰安所』と呼ばれ、軍管理のもとに、これを専門に営業する特殊の商人により経営されていた。性の商人の営業の足は遠く大陸の奥地や南海の島々にまで伸び、慰安婦のほとんどは朝鮮人であった」
満州・東安。
「満鉄が経営するヤマトホテルがあり、映画館が三つ、飲食店がいくつもあって、皇軍特殊慰安所が軒を並べている区画もあった。軍人軍属以外の者の立ち入りを禁じているこの軍管理の特殊施設では、女のほとんどは朝鮮人で、将兵たちは朝鮮ピイと呼んでいた。」
『泣くのはあした―従軍看護婦、95歳の歩跡』冨山房インターナショナル、2015年
大澤重人著
p82~83
昭和17年3月、満州・林口の陸軍病院に派遣された陸軍看護婦への聞き書き。「(彼女が後に行った)朝鮮国境の延吉にも、部隊とは別の街中に軍人慰安所があった。『慰安婦はほとんどが朝鮮の人じゃったかねえ。日本人の慰安婦もいて、将校や偉い人の相手と聞きました」
『黄塵赤塵―第37師団戦陣こぼれ話』第37師団戦記出版会、1986年発行
藤田豊著
(p236~238)
14年6月、中国・曹張鎮「そのころ、曹張鎮駐屯地には、女性は、日本人が5~6名・半島系が20~30名ほどいた」「なお運城の彼女たちは、半島系が約300名、日本系が50~60名ぐらい。カフェーは、時雨・木蘭・千鳥・大陸・大国など、10軒ほどであり、戦友諸兄にも、思い出は尽きないものと思われる」
『支駐歩三、第十中隊の歩み』支駐歩三、第十中隊会、1985年。昭和13年、北京で編成された支那駐屯歩兵第三連隊の第10中隊の戦史と回顧録集
支駐歩三、第十中隊会編
p126
中国・揚店子鎮
「一個大隊以上の兵力が駐屯している所には、必ず売春婦が付随している。ほとんどが朝鮮人で、主人公は女が多い」
『兵は死ね―狂気のビルマ戦線』鵬和出版、1983年
大江一郎
昭和18年9月、臨時召集され、ビルマ方面軍第31師団工兵第31聯隊に補充要員として入隊。インパール作戦などに参加
p219
ビルマ・ケマピュー
「だいいち、この時点で、看護婦と慰安婦を日本軍が同等に扱うはずはないだろう。特に慰安婦はほとんどが朝鮮出身の女性である。」
明珍格
p54
「慰安婦は朝鮮人ばかりで、日本人の女はいなかったのかと聞くと、全部朝鮮人だったという。」
『近衛第二師団第1野戦病院出征記録』私家版、1980年発行。同書は、手記で綴る同病院の記録。
ルマサキ会編
p48
昭和15年、中国・南寧
「市内の商人は殆ど内地から金儲けに来た人達で店舗は約30軒、主に飲食店であった。その他、3ヶ師団の兵に慰安所が20軒位。慰安婦は朝鮮婦人、支那婦人が多く、日本婦人は僅かであった。」
阪田泰正
昭和15年、短期陸軍候補生として入隊、陸軍軍医大尉
p14
昭和16年4月、満州・虎林
「娯楽機関として、映画館のほかに、軍の慰安所があり、朝鮮人の慰安婦が20名ばかりいた。」
秦郁彦が 『慰安婦と戦場の性』 で根拠に挙げている著作は、ごく少数である。
●秦が「確度の比較的高い」というp407の<表12-14>には、下津勇や児島幸造、大平文夫、二宮義郎などが挙げられているが、このうち著作があるのは、下津勇ぐらいであり、後は何の著作または証言を根拠にしているのか?まったく分からない。児島幸造、大平文夫、二宮義郎は誰が、いつ、どのように採談したのか?まずそこから秦は始めるべきだ。
●一番下にある『外務省本邦人職業別人口表』の「全中国」は、p89<表3-8>の15歳から39歳までの「旅館、料理、貸席及び芸妓業など」の分類である。
●p86-p87の<表3-4>で民族比率が分かるのは、43年の南京、38年の揚州、43年の蕪湖、39年の久江、39年の南昌、43年の漢口、<表3-5>(酌婦数)で民族比率が分かるのは、38年の広東、43年の海口である。
この内、日本人が最も多いのは、43年の南京、39年の久江しかない。
●上に掲載した<表12-14>で、海口(海南島の都市)の日本人の人数は、<表3-5>からの引用だが、何ら断りなく、芸妓と女給を加えている。もちろん日本の芸妓はしばしば売春もしたし、女給も同様だが、かならず売春したわけではなく、秦の定義における「軍専用」慰安所従業婦であるとも言えない。日中戦争がはじまった直後の1937年8月31日から2年8か月の間に、中国に渡航した民間人は59万人に達した。そこで1940年5月7日、政府は、当分の間支那渡航を禁じる閣議決定をしている。渡航した人々の中には軍に随行する企業もあれば、一旗あげようという人々もいて、またそれを目当てにする飲食店、水商売も進出した。こうして中国には大量の日本人が進出していたので、『外務省本邦人職業別人口表』の「旅館、料理、貸席及び芸妓業など」の分類から、慰安婦の数を割り出すことは非常に困難である。朝鮮人女性の場合、戦地、占領地にいた水商売の女性はほとんどが軍慰安婦だろうが、日本人女性の場合「酌婦」であっても必ず軍相手であったとは言えないし、ましてや統計に表れる芸者や女給を「軍慰安婦」に確定することができるような資料は存在していない。
しかし、秦はこれをかなりいい加減な処理によって根拠資料としている。
<表3-5>から海口は掲載しているのに、なぜ広東は掲載していないのかもわからない。
結論
民族別「慰安婦」比率を確定するような公文の資料は存在していない。しかし、兵士や従軍記者には、「朝鮮人が多かった」という証言が多い。