コラム)「反日民族主義」という言葉は、いつ誰が造り、どのように広まったか?

 

落星台(ナクソンデ)経済研究所の李宇衍(イ・ウヨン)研究委員が代表を務める団体に、「反日民族主義に反対する会」というのがある。産経新聞の名村隆寛記者によると、韓国では「売国奴」と呼び声も高い団体らしい。

https://bunshun.jp/articles/-/19618?utm_source=twitter.com&utm_medium=social&utm_campaign=socialLink

 

この「反日民族主義」という言葉。一体誰が作ったのか?

興味があったので調べてみる。すると以下の事が分かった。

まず新聞を横断的に調べてみる。

すると産経新聞の2002年1月6日の【談話室】に「戦後の歪みが日韓間に影響」という題名の記事があり、これに反日民族主義」という言葉が使われている事がわかった。これを書いたのは会社役員という触れ込みの松本元敦という人だ。

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   (後略)

 

読めば分かる通り、呉善花(オソンファ)が『月刊正論』の2002年2月号に、「日韓関係を歪め続けた『きれいごと主義』」という文章を書いているという。

「戦後の韓国は反日民族主義をあおる政治家やマスコミなどが 日本統治に協力した知識人に売国奴の汚名を着せて、国民を日本帝国主義の犠牲者に仕立てた」という内容らしい。

 

さっそく確認してみる。

するとわずか、11頁しかない論文に11か所も「反日民族主義」という言葉が見つかった。

 

(一部抜粋)

 

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呉善花にとって反日民族主義という言葉はよほど使い勝手がよかったのだろう。この著作以降、様々な著作で大量に使うようになった。「反日民族主義」という言葉の伝道者になったらしい。

かなりデタラメな歴史を述べている2006年の 井沢元彦との対談本『やっかいな隣人 韓国の正体 なぜ反日なのに日本に憧れるのか』 (祥伝社 )でもp265、p285等(祥伝社黄金文庫)で使っており、2013年の『なぜ反日韓国に未来はないのか』でも数多く使っている。

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(『なぜ反日韓国に未来はないのか』2013 呉善花)

『反日種族主義』批判ー「反日」という言葉の調査 - 『反日種族主義』検証サイト

↑ここでも多少言及

 

反日民族主義」は植民地体験によるものではなく、歴史を捏造して造ったものだという。

韓国の歴史教科書の記述は、正確性の点では問題部分もあるがおおむね正しい民族の記憶に基づいている。

呉善花歴史修正主義の大御所とも言える渡部昇一に強く影響を受け、井沢元彦櫻井よしこらと対談しながら、こうした理屈を造ったようだ。呉善花に続けとばかりに産経新聞には「反日民族主義」という言葉を使った記事が多くある。

 

イウヨンらは別に呉善花の弟子というわけではないだろう。

だが、確実にその影響を直接、間接に受けているのである。

 

 

余談)

田中 明には「韓国の民族主義と反日 」という著作がある。『海外事情 』1982-04に掲載された論文で、これは「反日民族主義」という言葉ではないが、いわば先駆けのようなものだ。田中 明は、佐藤勝巳や西岡力らが編集していた『月刊誌 現代コリア』の常連執筆者であり、将来まとめようと思っている「日韓請求権協定歪曲解釈の歴史」の登場人物になる予定である。

 

 

西岡力の労務動員(強制連行)論説について2 当てずっぽで語る「李承晩政権が日本から補償を取れると考えたのは「徴用」に関する部分だけだ」論

 

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西岡力は、『日韓歴史問題の真実』のp39でこう書いている。

 

「当時にはもちろん「強制連行」という言葉はなかった。それどころか、第一章で見たように、反日政策を強く進めた李承晩政権が日本政府に過去の清算としての要求を網羅的にあげた「対日請求要綱」のなかでも、この語は使われていない。ただ、「被徴用韓国人未収金」「戦争による被徴用者の被害に対する補償」という表現があるだけだ。つまり 、 李承晩政権が日本から補償を取れると考えたのは「徴用」に関する部分だけだった。」

ここで西岡は、【韓国政府が補償要求したのは「法的徴用者」のみである】と主張しているのである。

 

しかし、韓国政府は「徴用」という言葉を広く捉えており、西岡が使うような「法的徴用」のみを指して使用していない。法的な徴用以外の「募集」や「官斡旋」も入れて「徴用」と呼んでいるのである。例えば、1957年、李承晩政権が作成した『倭政時被徴用者名簿』には広く、被(法的)徴用者以外も含まれている(『朝鮮人強制連行に関する基礎資料の調査研究』海野福寿p19)。

 

有名な日韓会談では、第5次日韓会談第12次会議で次のように述べている。

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(p101)

「被徴用者とは徴用令によって徴用された者をいうのか」という日本側の質問に、韓国側はそれ以外もあることを告げ、日本側は「官の斡旋で来た者を含むのか」と聞き、韓国側は「そうだ」と答えている。

 

つまり韓国政府が使う「徴用」という言葉は最初から広く「官斡旋」等を含む概念なのである。

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 これについて、西岡力の著作を批判した山田昭次は朝鮮人戦時労働動員』のp108~109で、第6次日韓会談一般請求権小委員会第3次専門委員会で、韓国側が「官斡旋であれ、徴用であれ、当時韓国人労務者を日本に連行した方法は、甚だしく残酷だったことを知ってくださるよう願う」と述べた例も挙げている。

今日の徴用工裁判においても同様であり、韓国側では「徴用」という言葉を労務動員全体に使っている。これについては外村大が適切な説明をしている。

 

   『「徴用工」の用語は間違いか? 適切か?』外村大

そして日本政府の認識が、「今回の判決の原告については『募集』に応じたので『徴用』ではない」というものであれば、これもおかしい。
  この問題を考えるには、まず、「徴用」とは何か、ということをはっきりさせる必要がある。日本語の意味としては、「徴用」とは国家の命令で働かせることであり、朝鮮語の징용は漢字で書くと「徴用」であり、これもやはり国家の命令で働かせることを意味していると考えられる。その意味では、国の動員計画に基づいて働かされることを「徴用」というのは必ずしも間違いではない。

 

 

すると西岡の「李承晩政権が日本から補償を取れると考えたのは「徴用」に関する部分だけだった。」という主張はどこから来たのだろうか?

西岡の著作全体に言えることだが、根拠が書かれていないのでまるで分らないというしかない。昔指摘したことがあるが「奴隷とは金銭報酬をもらえず」と同様に、なんとなく想像して「当てずっぽ」で書いているのだろう。

 

 

 

 

労務動員(強制連行、強制動員、奴隷労働)に関する日本人の証言(工事中)

 

労務動員(強制連行、強制動員、奴隷労働)に関する日本人の証言




  

horikekun.hatenablog.com

から連動

 

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『戦争を知らない世代へⅡ㉑佐賀編 強制の兵站基地 炭坑・勤労報国・被爆の記録』創価学会青年部反戦出版委員会




①「石炭の一塊は血の一滴」 p8 新開秋雄 (労務主任)

貝島炭鉱(のち高倉炭鉱)昭和十三年四月

 

「坑内現場の天丼の条件が悪くとも、採炭は完全切付と言って、切羽全部の作業が終わらぬと昇坑は詐されませんでした」

長時間労働疲労し、健康を害し  落盤事故などで負傷して、出勤率が低下すると 、炭鉱内に設けていた憲兵派出所に呼び出され 、労務課の入坑督励を受けて説論をされます」

「炭鉱には私達が「半島さんとも呼んでいた朝鮮人労働者も多数働いていました。彼らは、炭鉱の仕事は初めてのうえ、言葉もよく通じなかったのですが、にもかかわらず仕 事を強いられました 。 独身の者は寮に入れられ 、 六畳の部屋に五人から六人もざこ寝させて 、 出勤率を上げようとするのです 。 このような生活に耐えられずに逃げ出した人も多くいて 、「ケツ割り」と呼ばれていまし た 。 給料を前借りして逃げる人もあり 、 つかまると 、 杖などでひどくなぐられました 。 そのようなおり 、 昭和十六年十二月八日に 、 相知の炭鉱でガスの大爆発があり 、朝鮮人労 働者を含めて十六名の人が亡くなりました 。」

「戦争が熾烈化して来ると、出炭第一の目標を掲げ、乱掘」

「坑木の数も減って行った結果、こういう災害が相次いで起こるようになりました。また、小さな負傷者などは日常のことで、鉱員の健康管理も行き居かなくなり、病人も多数」

「炭鉱生活は 、「白飯に魚」と言われていましたが、実際の配給ではとても足りず、配給の 地下足袋なども物々交換で米や味哺などに変えてすごしたこともありました。ほかには、おかゆ、ひじき、コーリャン、大根、ジャガイモ、サツマイモなどをゆがいたり、蒸したりし て、また、水で空腹をまざらせながら日々の重労働を支えていました。今思えば、難民同様の生活」

敗戦を知ると 、 朝鮮人達はいっせいに頭を上げ、「ニッポンマケタ」と叫び出しました。 それまでの不満が 、 いっぺんに爆発したのでしょう。労務課に追かけてきた彼らの団結心 は相当のものでした 。

「毎月一回の「山の神様」「天照大神」への安全祈願祭も欠かしませんでした。さらに、坑内の入り日の横にも 、やはり「山の神様」がまつってあり、入坑、昇坑の際は必ずお参りをしたものでした。しかし 、やはり事故は起こり・・・」

 

②「悲惨極まりない炭鉱生活」p18 中原貞男 

朝鮮人は 、私達日本人と違い 、ものすごい仕打ちで絶対監視付きであり 、差別的あつかいで した 。 朝鮮人の寮は私達の寮から離れており 、まわりは壁でかこまれていて 、出入口は一ヵ所しかなく 、窓は格子付きでまるで監獄みたいな所です。苦しくて逃げ出す人もあるのですが 、見つかると半殺しにあうような仕打ちでした 。 私達日本人は 、このような仕打ちは受け ませんでした 。」

「採炭するために仕事場に行く時は 、 十五~十六名が裸で並んで 、逃げないように二人の監 視付きで行くのです 。入坑する時は 、一人が二つの番号札を持っており 、 キャップ室で一つ の番号札とキャップを交換して入坑するのです。こうすることにより出勤率を確認されるの です 。また 、入坑の時 、服装検査がありました(中で煙草を吸わないため) 。 仕事には一人一人のノルマが決められており 、 それが終わるまで帰ることができません 。 採炭(炭坑を掘る)する場合 、 地盤が下がらないようにくいを打ち 、 石を詰めて支えを作り ます 。 坑道の高さは 、 座わってやっと入れるくらいで、これはまだいい方で、二尺五寸(七 十センチ)しかない所などは 、 寝て掘っていました。坑道を掘って行くにしたがい、充てん と言って地盤が下がらないように、めぼしい石を見つけて積んで支えを作って引き上げてい ました 。 自分達が掘ったあと、地圧でつぶれることがありましたので、つぶれないように石 を積んで支えを作るのです 。」p19

「このような生活の中で 、ただ一つの楽しみと言えば 、 劇場へ行って芝居や映画を観る ことでした 。 食事は 、お米が少量で 、あとは 、コーリャンや大根をきざんだ物、大豆などを混ぜて食べさせられました 。この食事が朝 、 昼(弁当) 、晩と一杯ずつでしたので 、 重労働の私達は 、そ れでは足りなくて 、農家にイモを売ってもらったりして食べておりました」

 

③「ハコ(炭車)の下敷きで義兄が死んだ 」p25 久保義男

「それから長崎や福岡の炭鉱 を転々とし 、 昭和十年七月に東松浦郡厳木町の岩屋炭鉱に入りました 。 当時の炭鉱は働かす だけ働かせて賃金を払わなかったり、それは圧制がひどかったので、少しでも条件の良い所 へと思い移ったわけです 。」

「なにしろ石炭は当時の重要燃料です 。 炭鉱でも憲兵が目を光らせていました 。 帰還の報告 を最初に憲兵にし 、 次に所長へ報告するのです 。 そうしてほとんどの人がもどって来ていま したが 、 それでも石炭の需要に追いつかず 、 私が出征する時は一人もいなかった朝鮮からの 徴用工が 、 びっくりするほど大勢働いていました。」

「とにかく朝鮮の人はよく叩かれていました。そんな時は、「アイ ゴー、アイゴー」と泣いていました」p31

アメリカ軍が進駐して来て何をされるかわからないということでした。とにかく 怯えきっていました。農家でも牛を飼っていた者は、アメリカ兵に取られるぐらいならと裏 山へ牛を連れて行き 、 そこで殺して食べてしまったほどでした。 しかし 、誰よりも兵隊に行った私達が一番恐ろしがっていました。日本兵はそれこそ戦地 で 、 そこの地元民に対して惨いことをして来ましたから。だから私も、家族の者がどうかされるのではないかと生きた心地がしませんでした 。 結局 、それは取り越し苦労でした」p33,34

終戦になって、炭鉱の仕事も八時間労動になりました」




④「私は”半島係” 悲惨な朝鮮人徴用鉱員」p35 池上捨広

岩屋炭鉱(貝島炭鉱株式会社岩屋鉱業所) 昭和二十年五月から

 

「炭鉱で の仕事は労務で 、 朝鮮人徴用鉱員係というものでした 。 朝鮮の人のことを「半島さん」と呼んでいたので 、 ふだんは半島係と言っていました。岩屋炭鉱にあるいくつかの坑口のうち、 私は五坑(相知町平山)の朝鮮人の係をしていたのです 。 五坑の寮だけでも百五十人から二百人ほどの朝鮮人がおり、五、六人で係をしていました」

「炭鉱労働者も兵隊に取られ 、 人手不足の解決策として徴用された のが朝鮮人でした 。 そして仕事の中でも 、 一番危険が伴う採炭や掘進を主にやらされていたのです 。 決められた出炭量を出すまでは作業を終わることもできず 、 かと言って腹いっぱいご飯を食べられるわけでもなく 、 何かにつけて叩かれるといった毎日でした。きつい仕事に 耐えられず逃げ出した朝鮮人もいましたが、ほとんどがつかまって連れもどされました。つかまった朝鮮人は、みんなの見せしめに、本刀やらで打っ叩くのです。とにかく、こちらに さからわせず 、 見くびらせないようにと 、 それはひどいものでした」p36

朝鮮人の五坑の寮は二棟あり 、 八畳一間に十人ほどが寝起き」「出入口は一ヵ所」「蚤や南京虫が繁殖し、始めはあった畳もボロボロになり、最後にはとうとう敷き板にじかに 蒲団を敷くという有様でした。その蒲団にしても、やはり蚤がたかってボロボロ」「蚤と南京虫には往生しました」

「それでも食料の不足はどうしようもないものでした。米の配給も一日に一合八勺ま で落ちました 。 徴用で連れて来られた朝鮮人達の多くは、日本に行けば食い物があると聞か されて来ていたそうですが 、 大体どんぶり一杯だけの飯で働かされていたのです。空腹を補 うために 、 食べられそうな虫とか青草とかを「これも食える、これも食える」と言って、ゆ でたりして食べていました 。 お茶がわりに青草をゆでた汁や 、 底にめし粒がくっついて焦げ ている鍋の中に水をいっぱい入れてグラグラ沸かして飲んだりしていました。」

「やはり事 故は大なり小なり起こり、落盤とかで死んだ朝鮮人もおりました。遺骨は大抵、終戦後に仲間の人が持って帰りましたが、無縁仏になった方もありました朝鮮人を可哀想に思う時も ありましたが 、 割り当てられた目標を完遂させるのが私達の仕事であり 、 属国の朝鮮人はどんなに使っても構わない、というのが当時の状況でもありました。同じ人間でありながら人 間らしいあつかいもされず 、 日本のために働いたのが朝鮮の徴用の人でした」

「炭鉱にも戦況を知らせる掲示板がありました 。『沖縄沖上空に敵機十機来襲、三機撃墜、 あと七機逃走せり』といった内容でした。私達の意気を上げるため、日本軍の勝ちだけを知 らせるものでした 。 それを見た者は 、 当然 、 勝ち進んでいると思い 、「やったな」「また勝っ たぞ」「さあ頑張ろう」と必死で石炭を掘るのです。実際のところどういう戦況かも知らず、 増炭増炭の命令でさらに過酷さを増す労働にも 、 歯を食いしばって耐えたのでした。ただ日本の勝利を信じて」

「しかし 、 戦争中は自分じゃない人の心を 持たないものに操られていたのです」

 

⑤「坑内巻き方で事故起こす」 p43 大宅源八  杵島炭鉱の工作係・巻き方

「戦争が進むにつれ″増産″の指示は強くなり、連勤」



⑥「責任出炭に命をかけた現場監督 」p53  十時惟吉

昭和17年1月から「佐賀県の西杵鉱業所に赴任」「採炭の先端で働く労働者のまとめ役、現場監督」

「「六千万トンから七千万トンは石炭を出さないとこの戦争には勝てない」と言われていました」「日炭一千トンから七百トンが絶対命令」

「私は仕事はパリバリやるし強情な性格だったので軍隊内ではひどい仕打ちをされました。 一種の精神異常の仕業なのでしょう。自分達が上官に苦しめられたから同じように部下を苦 しめていく――こんな風潮がまかり通っていました。忘れもしません、その日は上官達ばか りが何かいい気分で騒いでいるので 、 どうせ自分達も死ぬのなら持っていても必要のない金 だと思い 、 帽子の内側に縫いつけていたお金でたくさんお菓子を買い出しにいったのです。 それが上官に見つかってしまい、しこたまいじめられました」

 

⑦「深夜まで営業した理髪店」 p60  七田廣

「大町町の福母で 、 昭和十一年に床屋」「佐賀炭鉱か ら杵島炭鉱に改名」

「料金は丸刈りが三十銭で 、ハイカラ頭が四十五銭くらいの料金でした 。 ″米一升の値段が散髪料に大 体あう〃と言われていて」

「開業当時 、 炭鉱には朝鮮からたくさんの徴用人夫の人が来ていました 。どんな事情で炭鉱で働くようになったのか知るよしもありませんが、日本人とまっとうに話 もできないし 、生活環境も違うわけですから大変だったろうと思います。幸い私は片言なが ら朝鮮語を話せたものだから 、勢い常連客として徴用工の人達が増えました 。「炭鉱の仕事 はどうか」と聞くと 、仕事の内容や配給事情なども話してくれました 。 その話からは朝鮮の 人への不当なあつかいは感じられませんでした。言葉を通して情がわくものです。 彼らは律義というか 、私の店に来た人は他の店には行かないらしいのです 。ですから友が友を呼ぶと言うのでしょうか、朝鮮からの徴用工の客が増え、日本人の頭を刈るのが減りま した」

「杵島炭鉱の修理工場に配属されました 。 正規の鉱員の日給が一円二十銭なら 、 微用された私達は一円ほどの手当」

「何しろ 、 ″戦争はどうなるんだろう〃などと疑いをかけようものなら周囲からつまはじきさ れかねない 、 そして「人に聞かれるぞ」とあわてて仕事仲間に指を口に当てて注意されるく らい窮屈な世相」

 

⑧「戦時下の私の青春」 p67 江頭孝子

13年頃から杵島炭坑の会計課

東航機(現在のグリコエ場)へ就職 勤労課 の賃金計算 給料六十円

17年ころから再び工作事務所に

「杵島の石炭は軍需工場になくてはならない重要なものとかで 、 増産 、増産の追い打ち」

「また 、 増産の掛け声で朝鮮から徴用として労務課の募集係の甘言に釣られて引っ張 って来られた人が仕事をさぼったのか、労務課の繰り込みの前を通ると、その人達がひどい日に合わされているのを目撃したことがあります 。 そのたびに可哀想にあの人達も愛しい妻 子と離れ離れにされて引っ張って来られたのであろうにと衷れに思ったものです。でも戦争 末期で日本の敗色濃くなった頃は、徴用工へのひどい仕打ちもいくらかおさまったそうです が 、 威張り散らしていた係員は 、 終戦と同時に手痛い仕返しを受けたそうです」

大本営発表を鵜のみにして神国日本が負けるはずがないと信じ込んでいたのに、あの運命の 日 、 八月十五日を迎えたのです。」

 

⑨「空襲警報!窓飛び越え防空壕ヘ」p76 西島三千代

昭和15年4月から杵島炭鉱会計課

「”石炭掘れ掘れ。増産増産″の時代」

「戦争が激しくなると 、 炭鉱も増産のため朝鮮より強制労働者を五百人ぐらい引っ張って来 て 、炭鉱で働かせていました 。 炭鉱の労務の中に募集係という人がいて 、独身者ばかり連れ て来ていました 。 旭町や高砂町の朝鮮寮に入れて 、 石炭の採掘作業に従事させていました。坑内の仕事がつらいので 、さぼって休んでいる人がいました。労務担当の人が朝鮮寮をまわ り 、 仕事をさぼっている人を見つけて労務まで引っ張って連れて来て、なぐる蹴るの暴力を ふるうのです 。 すると痛いので、「アイゴー、アイゴー」と泣き叫んでいました。中にはつ らくて、穴割る(逃げる)人もありました。その中には、学校の先生もいました 。 炭鉱病院 に手当てに行き 、「アイゴー、アイゴー」と泣かれる姿は、本当に可哀相でした」p76,77

「食べ物でも戦時中の配給統制下にもかかわらず、米も特配があり、野菜なども田舎なので手に入りました」

大山神社で祈願祭が行 われたりしましたが、事故がひんばんに起こっていました。五坑採掘の昇降日から人車が出 て十輛編成車(作業員運搬)が進行途中、天盤の落盤事故が発生し、三、四幅が埋没し、数十名の殉職者が出ました。安全祈願が行われるたびに、なぜ事故が起こるのだろうかと不思 議に思っていました。事故は採炭に従事する人が多かったようです」

「事務所内を憲兵隊の人がうろうろ歩いてまわる姿が日につくようになりました」

「食料はコーリャンめしだし、北海道から来るサンマやタラの干し魚が、家族の人数により 配給されました 。 終戦前近くは煙草も配給・・」

 

⑩「炭鉱寮の″おっか―″として」 p85 田島ヤス

「戦時中 炭鉱寮の管理」「小城炭鉱では半島寮の監事」「半島寮にも八百人くらい」

「食べ物は配給だったのですが、配給では、もちろん賄いきれず、ほかから持って来てもらっていました」

「ラジオで天皇陛下の声で日本が負けたことを聞いた時は信じられませんでした」

「しかし、驚きと入れかわりに、良かったと思いました。十人のうち八人は、私と同じ気持ちになったのではないでしょうか」

 

⑪「炭鉱住宅二間に二世帯十二人住み」 p90 石内ミヨノ

「佐賀の大町に来ました。佐賀炭鉱の名前が杵島炭鉱へと 変わり」

「夫は坑内機械でも石炭の層を切って行くカッターなどの技術屋」

「「石炭を出さんと戦争に負ける」と言いながら夜勤、夜勤の連続」

「主人は部下をかわいがっていたのでしょう。狭い我が家に朝鮮からの徴用工さんを連れて来て 、 ありあわせで食事をしました 。 逆にメリケン粉に 野菜を入れた焼き団子を 、 みやげにと言って子供に持って来てくれました。炭鉱の近くには 高砂部落と言って朝鮮人住宅がありましたが、日本人が髪を引っ張っていじめたり、ひどい 言葉でものを言っておりました。そんな中で主人は朝鮮の人ともしっくりいっていたと思い ます」

「勝った、勝ったと言っていた戦争の割には、いよいよ物が手に入らなくなり″戦争が永く 続いたらいややなあ〃と本気で思いました 。 終戦の日天皇陛下のお話があると聞き 、 近所 の家に集まりました 。「戦争に負けた。さあ殺さるっぞ。坊主にならんば進駐軍に何ばさる るかわからん」といううわさもたちました」

 

⑫「電話交換手の声遠く」 p95 中原静子

佐賀県杵島郡大町町にあった杵島鉱業所で電話交換手の仕事」

「事故がひと月に二 、三度は起こってましたので、採掘量 が軍からあたえられたノルマを下回ることもよくあったとみえて、採鉱課の課長さんが「きさま達は 、 なんばぼさっとしとっか」などと殺気立って一日中坑内で働いている坑夫さん達を怒鳴りちらしていたことがとても印象的でした 。 各坑の割り当ては相当にきびしいものだったと思います」

「だんだんと戦況が悪化して来ると物資が不足」

「朝鮮の人達もたくさん徴用されるようになりました 。 この人達は 、 日本人とはほと んど隔離されていて 、 朝鮮納屋と呼ばれている宿舎とは名ばかりの粗末な建物に住まわされ ていました 。 私自身 、 電話交換台にいたせいもあって実際に朝鮮の人達が虐待されている場 面を見たことはありませんが 、 庶務課や労務課で仕事をなまけているとして 、 朝鮮の人達を コングリートの廊下に手をつかせて一列に並べ 、 それを木刀で叩いていることがありました 。 そんな時 、 朝鮮の人達が 、「アイゴー、アイゴー」と悲しそうに泣く声だけは毎日のように 聞いていました 。 採鉱課ではもっとひどい仕打ちをされているということは坑夫の人達から よく聞いていました 。 このように 、朝鮮の人達を虐待していたものですから 、 終戦になって 立場が逆転した時 、 虐待していた人達は仕返しを恐れて二週間以上も姿をくらましてしまい 、 仕事ができないことがありました 。」

「戦況が悪化するにつれて物資の配給も次第に少なくなり 、日曜日には決まって 母と二人で食糧の買い出しに行くようになりました」

「配給される食糧も、とても人間が食べるよう な代物ではなく 、大豆かすが材料で牛の餌としてのふすまとか 、まんじゅうを作ってもふっくらとならない黒いメリケン粉などが主」

「動物性たんぱく質もほとんど手に入りませんでしたので 、 いなごをみんな獲って食べていました 。」

「戦争中これほどまでに苦労して来たのに敗けてしまったことは、一番つらかったことでし た 。 終戦の日の前に会計の人から「明日から世の中が変わるよ」と言われたことを覚えてい ます 。」

終戦になるとアメリカ軍が上陸して来るから女の人達は山の中に逃げた方が良い 、 といっ たデマが飛びかっていました」

「私達はこの戦争は聖戦だから絶対に負けることはないと教 育されていて 、 そう信じていたのです 。 このような教育は二度と復活させてはなりません」

 

⑬「ほおかむりしてでも働かんば」 p103 田中ハルヨ

「新屋敷炭鉱(日満炭鉱)へ来たのは、昭和十九年」

「夫は昭和二十年頃から坑内に下がり、掘進夫」

「当時は、豆かすなどの配給もありましたが、それだけではとても足りませんでした 。 魚の 配給があった時、ならんでいるすきに、かごにお金を入れていたのを、全部とられたことも ありました」

「増産増産の日々の中 、よく憲兵が来て 、炭を出せ出せとハッパをかけました」




⑭「採炭の日々の中で息子を失う」 p110 市丸ルイ

厳木町の貝島炭鉱」

「夫と私は二人で、毎日坑内の一番深い所まで下がって行って、石炭を掘っていました」

「坑夫は必ずかかるという珪肺」



⑮「頭でぶつかって掘れ」 p115 山脇繁作

「太平洋戦争中 、 杵島炭鉱で坑内夫」

「炭鉱での労働時間は 、十時間 、十二時間などというのはまだ少ない方で 、十五時間ぐらいは普通でした。」

「私達が帰って来る前、炭鉱で働いていたのは朝鮮から強制的に連れて来られた人達ばかり です 。 一応、私達は彼らの監視役ということでした 。 会社からは、もし働かなかったら、殴っても蹴っとばしてもいいと言われており、私もその頃は、「自分は第一線で戦って来た人間だ」という誇りも強かったので、彼らを叩いて働かせたものです。」

「普通十三時間の労働で 、 弁当を持って行こうにも持って行くものがありませんでしたから、 当然空腹に耐えて働くことになります。朝鮮の人達も「腹がへってできない、できない」とよくこぼしていました

「落盤事故は多く炭鉱では日常茶飯事・・・死と隣りあわせの毎日」

「必ずかかる職業病に珪肺症」

「日本が負けたと知った時は呆然としました 。「今まで、何のために食べるものもろくすっぽ 食べないで 、 苦しい思いをしながら石炭を掘ってきたのか、すべてが水の泡になった」とがっかりしました 。昨日まで勝つと信じていた者の中には 、泣くものもいました」







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『消された朝鮮人強制連行の記録』林えいだい



⑯露天掘り 入江勇次郎   p55

 

貝島炭鉱第六坑の満之浦  大正5年5月から朝鮮人を使った。

「あの強健な体と、ただみたいな安い賃金に目つけたのではないですか 。」

「半島の 喧嘩の長いのは、あきれるほどやったですばい 。決して殴り合うようなこと は し な い で 、 一夜 中 で も 長 々 と 口 嘩 喧 し た 。 終 わ っ た か と 思 う と 一体 み し て 、 飯 を 食 べ る と ま た 出 て 来 て 再 び 喧 嘩 を 始 め る 。 徹 底 し て 相 手 を の の し り 合 い 、 そ の 辛 捧 強 さ と い う か 、 絶 対 に 暴 力 に は 訴 え な い こ と は 驚 き や っ た ね 。 日 上 の 者 が お る 前 で は 煙 草 は 吸 わ な い し 、 老 人 に 対 し て は 特 別 に 大 切 に し て 、 半 島 ち い う て 馬 鹿 に は 出 来 な い 立 派 な と こ ろ が た く さ ん あ り ま し た よ 。」

「や っ ば り 日 本 人 の 心 の 底 に は 、 朝 鮮 人 に 対 す る 差 別 は 根 深 い の よ 。」

「第 七 坑 の 俵 口 和 一郎 坑 長」

「それも十八 、 九年になると半島は哀れな姿で連れて来られ、 中には泥足のままの者もいたから、どういう方法で徴用したの か想像がつきますたい 。 無理して徴用しとるからすぐ逃げる し 、 反対に半島納屋の坑夫は誰一人として逃げんやった」





⑰訓練  桂巧

元貝島鉱業所大之浦炭鉱第二坑々内係区長・宮田町在住

「第七坑時代 、露天掘りの朝鮮人と一緒に夜学校に行って、それから職員になった」

「貝島炭鉱で 、 最初に朝鮮から強制連行して来たのは、昭和十 四年の終わり頃で 、 香月(北九州市八幡西区)にある貝島大辻 炭鉱に二百五十人来ました。次の募集で十一月、大之浦炭鉱に 二百七十四名が第二坑の協和訓練所に入所しました。そこでは 一日二時間の教育 、 後は入坑して採炭するという三カ月の訓練」

「精神訓話や皇国臣民としての在り方、 教育勅語を教えました」

朝鮮人の賃金は日給制で 、 最初の一カ月間は二円均一でね 。 次の一カ月は 、 二円三十銭 、 三カ月以後は二円五十銭」

朝鮮人は体力があって」

朝鮮人が多くなると秘密保持の立場からスパイ取り締りが強化」

「その当時 、 逃亡者や反抗的な坑夫を再訓練するため、特別訓練所を設けて憲兵まで投入してヤキを入れていました」

「その頃は配給制度で 、 米の代りに脱脂大豆などが入って、一 般的に食糧難の時代でしたが 、それにしても量が少な過ぎた」

労務課に行って一人当たりの量を調べると、稼働者一人につ いて五合あって、入坑した日には増産米がついていると説明が あった。実際に寮の炊事場に行くと、朝鮮人のいう通りでね。 それから坑長に実情を訴え 、 翌日から食事は改善された 。 ところが寮の労務がピンはねしていることが分かり 、 今度は彼らから私が恨まれたですよ。採炭のような重労働になると、空腹ではとても仕事にならん のですよ。もちろん栄養的にも魚や肉などの蛋白質が必要だがそれがないので、私は休日になると陥没池に投げ網を持って魚獲りに連れて行った。うどんが手に入った時は、昇坑すると家に連れて来て食べさ せた 。特別訓練所の不良坑夫も人間的な愛情に飢えていたのか 、放っておいても逃亡の心配もなくなったからね」

筑豊のどの炭鉱でも 、 朝鮮人は人間のうちには入れられなか ったからね。労務係は強制的に力で押さえつけさえすれば、彼らは働くといった考え方が強かった」

「まもなく木村武夫は 、不良朝鮮人ということで朝鮮へ強制送 還されました 。 朝鮮に帰った木村武夫が、抗日抵抗組織のメンバーで 、京城で検挙されたことを貝島の募集人からの連絡を聞いて驚きました」

「その当時の炭鉱は 、 各朝鮮人寮ごとの出炭読争が行なわれ 、成績を上げようと必死になって働いた。坑内の保安と安全性は 全く無視され 、現場の条件を考えずに出炭日標が決められた 。 結果的に坑内は乱〇されましたからね」

(訓練で)「私のいったことを通訳が朝鮮語で話しました。全くの素人にそれが分かるはずはないからね」

「落盤による脊髄骨折」

「三十数年間も半身不髄で生き長らえて来たけど、あの時の朝鮮人はどうしていることやら、無理な労働をさせてすまない気持でね」

 

(この食料横流し話は多くが沈鶴鎮によって裏付けられている)

 

⑱虐殺と原爆   井手清美 p125

古河鉱業所大峰炭坑労務係 川崎町在住

「親父は熊本県の出身やが 、若い頃 、兵役拒否して追われ 、蔵内炭鉱の納屋に逃げ込んだ 。 いったん、炭鉱の納屋に入ったら、 納屋頭の頭領が面倒を見て 、憲兵が探しにこうが警察がこうが 絶対に渡さんやった。いわば納屋には治外法権なところがあっ て 、 警察権も介入出来ない面があった。食べることから着る物 まですべて保障されると 、 そこの頭領に義理が出来て、 親方の ためなら生命を捨ててもいい気持になる 。 親父は一種の食客と いうか用心棒で 、 外の納屋との出入りがあると、真っ先に親方 のために働いた」

「小さい時から納屋では賭博と酒 、 喧嘩出入りがあって、自然とその環境に慣されてしまい 、それが世の中だと思い込んでしまう 。 人が喧嘩して殺されたといっても別に驚かないし、青年 になると炭鉱で働くものと決めとるからね」

「軍隊上がりのわしたちしか労務係は無理だとね」

労務係はみんな軍隊上がりばっかりで、すべてが軍隊式にやっと った。炭鉱としては、意図的に兵隊帰りを使うとったからね」

労務課長から呼ばれた。 「お前たちは指導員やから半島になめられるな。奴らはちょっと優しくするとすぐつけ上がる。なめられんごと最初にぶっ叩け!」

「訓練が終わると猪金の白鳥神社まで行軍させ 、 神社参拝をして引き返した」

「先山の中にも後山の坑夫を可愛がる人と、正反対に虐める人とがいた 。 悪い先山についた者は不幸やった」

「軍需工場に指定されると 、石炭の出炭量とか先夫数も秘密でスパイを警戒した」

「逃亡する時は手紙で連絡しよったんで、暗号を使うのでよく 読まんと発見出来ん。 家族と交す手紙に 、 逃亡先の規成の住所を書いているものもあった。

一番心配したのが思想関係で、炭鉱の出炭量や軍隊のこと 、日本の批判になると要注意で、すぐ特高に連絡して取り調べてもらった。出した手紙を開封したり、先方からの手紙も 渡さんこともあった。不満分子に気をつけんと、すぐ扇動して騒ぎ出すからな 。 親書の秘密なんか、寮の中ではいうてはおれん 。 朝鮮人は何をしでかすか、油断も隙もならんやった」

「満期は二年と決まっとるが、不思議に思うのは ,その数日前に 逃亡してしまうことだった。もちろん賃金は労務で積立てとるし、退職金とか帰国旅費も無駄にして、働き損なのにその気持がわしには分からん。

 炭鉱としては新しく朝鮮に渡って強制連行しようにも、もう労務係の手が足らんで行けんやった。満期になった寮生を、どう引き続いて働かせるかが、労務係の頭の使い所でね。

「後何力月で満期になるぞ。成績がいい者は帰ってもよろしいが 、向こうには仕事がなかろうが。徴用されたら樺太とか千島へやられるそ 。 もう朝鮮に帰ることも出来ん 。 それよりこのまま大峰炭鉱で働いて、家族を呼び寄せたらどうか?」 家族を呼び寄せるというと、殆んどの寮生は帰るのを止めて炭鉱にとどまった。

一度朝鮮に帰すと、絶対といっていいほど炭鉱には帰らんやった。再び労働者を集めようと思えば 、他の炭鉱から引き抜きをやらんことには不可能だったですよ」

「逃亡する人間は最初から計画的に考えて行動を起こす 場合と 、外出許可で町に出ている時、突然思い出したように逃亡する二種類に分かれた。とにかく塀の中で外部と遮断され、 自由がないので孤立感と息苦しさでたまらんようになるらし い 。仕事は暗い坑底ばかりで、圧迫感だけで解放感が全くない 。自分の国のためならともかく 、日本が戦争に勝つために、どうして危険な仕事をしなければならないかと、基本的な考え方の違いがあった。国におれば貧乏して食うのにも困るが、家族と一緒におれるのが一番幸せという考えがある。しかも言葉も不自由 、どうしても炭鉱の生活になじめないですたい。 嫌だ嫌だと思って半年、やっと自由に外出出来るようになる と 、 その日を待っとったようにどっと逃亡するからね。夜間逃亡する寮生がいたが 、わしたちにとってこれが一番困りよった 。夜は暗いし、何処へ行ったか全く見当がつかない」

「戦争の末期になると逃亡も巧妙になって、あの手この手でこっちの裏をかくからね。四、五回逃亡して、その都度捕まって 送り返される者もいた 。 死ぬようなリンチを受けても 、 しばら くするとまた逃亡する 。 逃亡にかけては天才的というか 、 何故 そうまでして決行するのか気持が分からんやった。

労務事務所には、リンチの七ツ道具がよりどりみどり取り揃えとった。木刀は叩いても折れないように、桜の木でつくった 太いものや 、 普通はベルトが使われた 。」p130

 逃亡すると各警察署に手配して捕まえたが 、 炭鉱としても労務係の監視人が目ばしい駅に出張して待ち構える 。 会社ごとに 日を決めて監視人を出すが 、 自分のところから逃亡した寮生だ けでなく 、 他の炭鉱の朝鮮人でも捕まえて帰る 。 絶対数が足りないので 、 炭鉱としては一人でも欲しいわけ 。 逃亡に成功して一年もすれば 、 革靴をはいて背広を着てばりっ としている」

「わしたち労務係の仕事というのは 、 叩いてでも働かせるのが 仕事のうちで 、 陽信寮のことが女房の耳に入ると嫌がった」

「逃亡者が出 ると 、 労務係の責任になるので 、 その時のわしはもう見境いが つかんやった。上半身を裸にすると、壁にかかった皮ベルトを 掴んで李山を叩いた」

「おい、誰が死んだとか?」 「決まっとろうが、お前に叩かれた半島たい」「馬鹿いうな 、 李山が死ぬわけがなか」 わしは李山が死んだとは考えられなかった。 あれくらいの叩き方は何時もしていたし 、 六時間後に死んたとは信じられんやった。労務係助手の高山に様子を聞くと、後番の労務が交代でしごいたらしい 。 あんまり激しく殴りつけた ので 、 失禁状態のたれ流しで 、ズボンが糞だらけになってしまった。」p132-133

「古河病院に運ばれて来た李山の遺体はまだ温かく 、 医者が人工呼吸をほどこしたが蘇らなかったらしい。 医者は心臓麻痺と診断したが 、 風呂に投げ込む前にすでに死んどったのかも分からんですたい 。 リンチが死因であることは判然としとった。 あの当時 、 考えて見ると特高というバックがあったから、労務係は平気で寮で叩き殺したり出来た 。 特高といえば労務係も びりびりしとるし 、 朝鮮人特高を呼ぶぞといっただけで恐れ とった。 労務係とか坑内係が寮生を叩くことは 、 当り前のような雰囲 気があって、それがみんな国のためと思うとった。戦争に勝つ か負けるかの時に 、 一人や二人叩き殺しても石炭さえ増産すれ ばいいと 、 黙認したところがあったからね」p133

「炭鉱の幹部は 、 すぐ緊急会議を開いた 。出来れば表沙状にしないで 、 内部の問題として 、 心臓麻痺による死にしたかったらしい。」

「李山が死んだことは陽信寮から愛汗寮にも知らされた 。 坑内の者はみんな採炭を止めて無断昇坑すると、持って上がった坑 内ヨキやソコで陽信寮を襲った。労務詰所に押しかけ、そこに いた五 、 六人を殴り倒した 。 わしは危険を察して、上の事務所 に逃げとった。詰所の中の机や書類は片っ端から窓の外に投げ 出され 、 寮の窓ガラスは割られて一枚も残らんやった。奈から坂を上って病院に押しかけ 、 李山の遺体を持ち出そうとした 。 予想外の暴動に発展して 、 もうわしなんか生きた気がせんやった。李山を最初に叩いとるし、必ず仕返しをされると思うとった。 何でもそれからすぐ、後藤寺警察署から特高がトラックでやって来て、七時頃になってやっと危険が去った。 それからすぐ労務係十人と坂本隊長が 、 特高から呼ばれて取り調べが始まった。朝鮮人を一人殺したといって、別に罪の意識はないので 、 特高が何故取り調べるのか納得がいかんやった

労務係を全員辻捕して 、 殺人犯で送検しないと収拾がつかんごとなっとる。そうせんと 、 朝鮮人が納得せん情況があった。他の炭鉱では、何人も朝鮮人を虐殺しても問題にならんで、大峰炭鉱のわしたち は運が悪かった

「わしと木元、後藤の三人の労務係と、 朝鮮人の金山と高山の二人の労務係助手、合計五人が殺人罪で起訴された 。 労務係が 朝鮮人を殺して裁判になったのは、筑豊の炭鉱でははじめてのことで、ずい分同情されましてな古河鉱業所では二人の弁護士をつけ、「 後のことは面倒を見るから、家族のことは心配する な」と慰めてくれたが、殺人犯というのはいい気持じゃなか。 弁護士は、戦時中の特殊事情があるので、刑期については情状酌量して欲しいと法廷で訴えたし四十五日間のスピード裁判 で、五人ともそれぞれ二年の判決を受けた 。 弁護士は刑期に不服があったら控訴してもいいといって、みんなの意志を聞いたがわしは止めた。上告して無罪になれば別やが、もし刑を上わ乗せされたらたまったもんじゃないから断わった・・」

「最初のうちは福岡刑務所に入れられとった。 炭鉱で朝鮮人を殺したということで 、 思想犯や凶悪犯じやな いから、刑務所の看守たちからは優遇された。「お前たちはかわいそうだ」 と同情されて 、 飯の量も外の国人よりも多かった」

二人の労務助手が帰国してから殺されたことを聞いて 、 わしは申しわけないことをしたとしばらく気持が重苦しかった」

 

         〔特高月報〕昭和十九年 集団暴行事件



⑲軍隊出動 寺尾章 p138

筑豊鉱山地帯特別警備部係長

「所属は西部六七九九部隊だが 、 第十二師団直轄の「筑豊鉱山 地帯特別警備部隊」で 、 部隊長を拝名」p140

「久留米連隊に志願して 、 まもなく満州奉天に設けられた 「奉天臨時俘虜収容所」の副官を勤めた。シンガボール陥落 で 、チャンギーキャンプにいた捕虜を奉天に移動させた。 捕虜たちは寒い奉天の気候が合わず 、 急性肺炎を起こした 。 さらに栄養失調と脚気でばたばたと死んでいった。英語が話せ るので通訳を兼ねてといわれたが 、 もしそのます勤めていた ら 、 戦後 、 捕虜虐待でBC級戦犯で絞首刑になったかも知れない」

「君も知っている通り、半島は今や炭鉱では採炭の主力となって働いている。捕虜もただで飯を食わせるわけにはいかない から 、 炭鉱に俘虜収容所をつくって働かせている。中国人の捕虜も、どしどし投入することになっている。半島は無理に徴用して来ているから 、 不満が何時爆発するか分からん 。 捕虜も中 国人も敲国人だし 、 反乱する可能性はいっばいある・・・」

「昭和十九年三月・・・私は豊州炭鉱が軍需工場に指定された ことで、朝鮮人の警備をどうするかを社長の上国清次郎と打合 わせたので、帰隊が少々遅れた 。 帰って米ると、私を待ち構えたように下士官が、古河鉱業所 大峰炭鉱の陽信寮で、朝鮮人が暴動を起こしていると報告があった」

「ノコや坑内ヨキで寮の柱を切ったのか、ねじれて倒れそうに なっていた。警察の出動のほうが早かったようで、私が行った 時には鎮静化して 、 朝鮮人五 、 六人が固まって私たちを見てひ そひそと話していた 。 わぎわぎ朝の演習で大峰炭鉱に来て、軍 隊が出動してみると事件が終わっていたとなると面白くない。 私は事務所に行くと 、 すぐ坑長と労務課長を怒鳴りつけてやっ 一に 労 。 務課の特高の部屋に行くと 、 小柄な特高主任の満生という 男がいた 。 警「察はただちに状況を報告したまえ」 「いや、隊長、この事件は、警察の管轄だから報告の義務は ありません 。 もう事件は解決した後です」 特高の績相な態度を見て 、 私は軍隊に対する侮呼だとカッと 来た」

「「報告せんとはどういう意味だっ!」 「あなたがそういっても、管轄が違うんですよ。隊長から命 令される筋合いはない」 軍隊に対して 、 警察の分際で何をぬかすかと腹が立って来 た 。 命令系統は違うが 、 日の前で暴動が起こっているから情報は必要だった。第一、それ以後、暴動が絶対に起こらないとい う保証はないわけだからね 。 「何をっ、生意気なことをいうんじゃない。なんだ貴様、も う一回いって入ろ。もし今後、再び暴動が起こったら責任を持 つのか―三貝様が報告しなかったら、軍独自で調べるからその っもりでおれ 。 今は戦争している時代だ。軍隊と警察が管轄が 違うといって、情報を提供せんことがあるかっ!認識不足も はなはだしい」 私は持っている軍刀を、床に叩き突けて怒鳴りつけた。 「隊長、これは炭鉱側の連絡の手落ちで、誠に申しわけない ことをしました 。 報告が遅れたことが原因ですから、お許し願 いたい」 坑長は平身低頭して私に謝った。 特高は本暑に帰ると県の内務高一長に報告して、電隊と警察の いざこぎを県知事に話したんだな。その当時の県知事は古川茂 という大物の内務官僚で、すぐ西部軍司令部に抗議している。」

「「この国家の非常時に、軍隊と警察が大喧嘩したといわれると世間の笑い者になるだけだ 。 君のいっていることは十分理屈 が通っているが、問題は相手が県知事だけに処理が難しい面も ある 。 後は俺に任せとけ」 炭鉱側の坑長と労務課長に会い 、 陽信寮の現地を視察して帰った。」



⑳手錠   岩田鹿雄 p144

古河鉱業所峰地炭坑労務係 添田町在住

「近くにある峰地炭鉱の労務課に勤めました」

「兵隊帰りじゃないと朝鮮人の取り締りが出来んからすぐ来いといわれました」

「朝鮮募集に行った手島さんは軍曹で、半島からは一番恐れら れていました 。 何処の朝鮮人寮でも必ず一人や二人は悪玉がい て 、 力で押さえつけとったからね。彼らを自由にお客さんにしとっては、絶対に働かんということもあった。石炭を掘らせるために連れて来ているから 、 ある程度強制は止むをえなかった

「無理矢理して連れて来られたので 、みんな怒っているから 働くわけがない」 

「どうしてや?」

 「ある日 、 自分の家に 、親しくしとった面書記が来たんです 。 彼がいうには 、内地から微用が来たので 、人集めに困っと る 。 働けるような若い者はおらんので 、お前を出すことになったとね 。 自分は病気の両親がおるので 、 看病せないかんので行かれないといったんです。すると、お前すまんが顔を立てて行ってくれ。その後、途中で逃げても構わんからとね。自分の幼友だちだし 、彼の手前もあろうから、手続きをしに面事務所に 行った 。 すると面の巡査とここの炭鉱の労務が自分を取り囲ん で 、帰れるどころか逃げることも出来んやった 。すると面長が 来て 、次の集合場所の麗水まで行ってくれ、するとこっちの顔 が立つから 、 そこから逃げて帰ればいいだろうとね 。 麗水まで 行くと逃げれるどころか 、 監視がきびしくて日本の炭鉱に来てしまった 。 みんなも同じような方法で強制的に徴用されたからな」 「お前たちは希望して来たのと違うのか?」 「希望して来るわけがないじゃないか。第一、最初から日本で働く場所もいわんし 、 着いて見ると炭鉱ということが分かっ た 。 自分たちは騙されて来たのだ 。 ここの済州島の人間はみんな同じだ 。 両親のことが気になるから早く帰してくれ 。 仕事をしないのは当り前じゃないか」」

峰地炭鉱の労務といえば 、 朝鮮人を叩くことが仕事の一部や ったからね 。 坑内係から「明日は半島を五十人入れてくれ」と」

「寮からの逃亡は続いて 、労務はその対策に手を焼いた」

金を持ってないから無賃乗車で、彼らは必ず自分たちが下関 から乗ったコースを逆戻りしたから、大体が行橋駅で捕まえたですよ」

「捕まえて炭坑こ連れてかえると、徹底してしごきました。」

「・・・事務所のコンクリートの上に正座させ 、 棒で叩いたり踏んだり蹴ったり、意識がなくなるほど やりました 。 少々叩かれたくらいでは平気なもので、次々と逃走して労務 は探し回るので自分の仕事が出釆ないんですよ。腹が立つから 捕まえると、それだけ拷問もひどさを増すというわけでね。労務からいわせると、逃げる彼らのほうが悪いということになる。昭和十八年八月 、 ちょうど盆過ぎのことでした。第四練成道場に入寮していた百人の朝鮮人のうち、一カ月に五十人が逃走した 。 ニメートルの高さの板塀を飛び越えて、半分が逃走した ので炭鉱はあわてたですよ 。 募集して来た百人のうち半数だか ら 、 日頃の労務管理が悪いからだと上からは怒られてね」

朝鮮人は言葉が分からないし 、 叩いて命令せんということをきかんやった。拷間とかリンチといえば残酷に聞こえるが、気合いを入れるといえば自分なりに納得出来ましたからね」



㉑ 便所の落とし子  其田信義 p153

「兵隊から昭和十二年に帰ると 、 経営者が交代して両親が古長鉱業所にいたの で 、 そのまま労務係に」

朝鮮人がどっとやって来たのは昭和十七年頃で、労務係長の 進藤竹次郎さんが 、 何回も朝鮮に行って募集して来ました。古長と上国の両方の朝鮮人寮の大隊長が橋川政市で、同じ労務の 仕事をしているが 、 私たちには朝鮮人のことはいっさい分かり ません 。 橋川に朝鮮人寮を管理させとったが、私の印象としては、そんなに坑夫を痛めつけるという感じじゃなかった」

労務係長の進藤さんは、「橋川大隊長とお前たち労務は、あまりいざこざを起こすなよ」と、何時も口癖のようにいっとり ました 。 だから私たちのほうから、朝鮮人労務を敬遠していま したよ 。 あの当時から 、 古長鉱業所の半島の労務管理がよかったのは、 橋川のお蔭だといわれていましたから 。」

「古長鉱業所は 、 大納屋と小納屋のちょうど中間に朝鮮人寮が あって、その境界に高い板塀をしていました。高い経費をかけて連れて来ているし 、 逃げられると石炭が掘れないからね 。」

 

   〔石炭鉱業互助会報

  昭和十五年 移入半島人労務者募集法改正による 現地手続に付て

  八 、 就業案内に就ぞ注意すべき事は、法規に示す以外家族 呼寄せの場合の家族

  三名迄は旅費の全額を支給記入すること を忘れぎる事



「古長での半島の待遇は、日本人よりもずっとよかったですよ 。 日本人のほうが食糧事情は悪かった。弁当も軽いし、私の ところなんか恥しい話やが、朝鮮人寮の賄のおこがりをもらい に行って食べましたから。国のほうは、彼ら朝鮮人に石炭を増 産してもらわんと戦争が出来ん。そのために十分な、他の日本人よりも余分に食べさせているはずです。 今 、 筑豊に残った朝鮮人や韓国人が、被害者意識が強いとい うか 、被害をより誇張した一田もあるのではないですか。実際に はそんなにないのに 、 かなり感情的になっていると思います。」

朝鮮人が坑内で死んだことは、私は一度も聞いたことがあり ません 。 もちろん古長鉱業所の坑内で、虐殺された話もない。 日本人の指導員がついているので 、 虐めたりして動けんごと 叩いたら 、 それこそ石炭の生産が落ちるので 、 大ごとになりま すよ」



㉒一億総火の玉 大場重治 p167

豊洲炭鉱古長鉱業所労務課長 川崎町在住

朝鮮人寮は 、 古長も上田も橋川政市が大隊長をしとった。私 は橋川にはたまに指図しましたが 、 彼が解決出来ん場合はこち らでやりました 。 出炭成績を上げるためには、一人でも多く入坑させないと困 るからね 。 昔の納屋制度の圧制が 、 そのまま朝鮮人の寮制度に生かされ たから 。 炭鉱にはそこの炭鉱の習慣というものがある」

「さらに出炭成績で計算するから、朝鮮人の中で も余計もらう者もおるし 、 少ない人も当然出て来る 。 その上まえをビンはねすることになるから 、 少々体がきついといっても 大隊長は無理して部下を入坑させるわけだ 。 朝鮮人寮には監視を兼ねて労務を詰めさせ、それは指導員と 呼ばせました 。 逃亡したリサボる者があると、指導員が徹底し てヤキを入れるから 、 同胞の中で圧制の要素がありました」

逃亡者を「労務事務所で一日中殴らせました」

朝鮮人は内体労働には適しているが 、 知能的な技術に関して は全くないんですね 。 教育を全くといっていいほど受けていな いから 。」

「坑内にはコンベアという機械があるし、発破をか けて石炭を掘りさえすればよかったから。それは素人でもすぐ 出来るわけ」

「朝鮮募集がだんだん難しくなって、月産一万トンを割るよう になった。募集するために部長とか関係者に賄賂を贈らないと 集まらない 。 遠くへ募集に行くほど釜山に戻るまでの経費が高 くなり、募集期間が倍以上かかった。一人百円の募集費は、彼らの前借金として 、 毎月の給料から差し引いたからね」

「炭鉱は石炭増産の使命があるから 、 政府から米とか酒の特配を受けた 。 贅沢ではなかったが、朝鮮人寮は一般よりも特別に よかったことは確かだよ。炭鉱で真面日に働けば、食う物に困 るということはなかった。 メチルアルコールを飲んで一人が死亡したことがあるが 、 夜伽に行った朝鮮人が残りを飲んで二人が死んで大騒動した 。 ある日 、 坑内で自然発火があって密閉したところ。それを朝鮮人の誰かが小倉憲兵隊に投書して 、 中にいる坑夫を何故殺したのかと油を絞られました」

「圧制の要素というのは 、いっばいありましたからね。橋川は入坑させるだけ自分の収入になるので 、指導員を使ってかなり脅していましたょ 。 彼は翼賛会と協和会の県の幹部で〃一億稔 火の玉〃と朝鮮人にハッパをかけていました」

「同胞を食いものにしたことだけは確かだね」




㉓半島労務者管理の私見  進藤竹次郎 〔石炭互助会報〕昭和十八年

豊州炭鉱古長鉱業所労務係長

「石炭増産に労力の絶対必要なことは言ふまでもないが、今日労力を確保することは 、 非常に困難となって来た。内地方務者の量を頼まんとしても到底及ばないし 、 定着運動 、 逃亡者の防止なども行はれているが 、要するに労務問題は今日のところ行きづまっているとの感なしとしない」

「当坑に於ては 、 幸ひよき指導者を得てかなりの好成績をおさめつつあるので 、 少し感じた ことを述べて見たい 。 一口にして言えば 、 半島労務者管理 は 、 彼等を一日も早く内地化 、 皇民化することにありと言っても過言ではないと信ずる 。」

「即ち 熟練者未熟練者の配置を研究していないのと、 従業せしむべ き場所の選定をおろそかにするのと、もう一つ作業訓練の不徹底によるものと見て間違がない 。」

「尚逃亡者の貯金等は 、 これをすべて慰安に廻しているが、労務者も満足して居り、このやうな金でも金銭の授受はハツキリして置く方が安心である。」

「紛争の原因の一つは、差別待遇をなすことにもある」

「日本精神を叩き込入、皇国臣民たるの自覚を抱かしむるこ とが必要である」

「当坑に於ける半島労務者の管理は、大体良好であるのは以 上の点に注意しつつある為でもあるが、一つには寮長の血み どろの努力の結果であることを特記したい。」

「当坑の寮長は、内地人に非ずして半島出身者である橋川政 市氏で 、 すべて彼に一任し管理せしめてゐるが、力強き信念 と確固たる国体観念にもとづく労務管理のやり方は、内地人 労務者の方が教へられる位である。 もし当坑に橋川氏なくば、附近の某炭坑のやうな不詳事件 が起こったかも知れない」

 

㉔朝鮮募集  小松一馬

豊州炭鉱古長鉱業所労務主任

「昭和十五年八月 、 わしは中支戦線から復員して来ると・・・募集係と兵役係を兼務した」

「 務係長の進藤竹次郎が 、 最初に朝鮮総督府に行って割り当 ての認可を取りました 。 私はそれからちょうど十五日間くらい 、 朝鮮の日舎を駆け回って労務者を集めた。朝鮮の農家は、 内地に比べるとすごく原始的で、大体において貧乏なところだ った。百姓していても食えないから、内地へ出稼ぎに行って、 銭稼ぎしたいという希望者がうようよして 、 どうして危険な炭鉱に志願するのか 、 その気持がさっばり分からんやった。 豊州炭鉱の朝鮮人寮の大隊長の橋川政市と二人で、朝鮮の面事務所を回って、たった一週間で一〇〇パーセント達成したか らね 。 橋川は口が上手というか 、 面長とか面巡査に袖の下を包 んでやるので 、 こっちは動かんで彼らが率先して集めて来た。 私たちの仕事といえば 、 旅館に泊まって戸籍抄本を集めるだけ でよかった。面書記の中には日本語を話せるかなりのインテリ がいて、ずるい奴ほど駆け引きが上手でね 。 料理屋に招待して 酒と女をあてがうが 、 それでも簡単にはいい返事をせんやった 。 彼らも出せば出すほど、そこの家族からは恨まれるわけですから 。 わしが募集に行った当初と後では、全然違って来ました 。 戦争の末期になると、 炭鉱が一番必要としている労務者は 探してもおらん状態で 、 面長なんかこっちの足元を見すかして、時に賄賂の要求をするわけですよ 。」

「朝鮮での募集費は 、 大体 、 一人につき百円かかりました 。 旅費は関釜連絡船を含めて、国防服、帽子、地下足袋の一式と、 集結地までの交通費を入れると 、 全部で百円くらいの大金になった半島人の橋川には、炭鉱は決して現金を持たせなかった からね 。 朝鮮人は安心ならんといって。私は家内に頼んで特製の胴巻きをつくらせ 、 そこに百円札をいっばい押し込んだ。まるで妊婦のように腹が突き出てね 。 金の要る度に、胴巻きから 出して支払った。 最初のうちは 、 募集に来ていると聞いて、わざわざ旅館まで 訪ねる朝鮮人もありましたばい 。 内地にスムーズに連れて来る ために 、 日本語が出来て上に立っても統制の取れる者を中隊長 に任命した 。 その下に班をつくらせて 、 班長をそのまま小隊長 にして責任者を決めた。もし途中で逃げると、班全体の責任に して、募集にかかった経費は彼ら全員の借金になったからね。 最初のうちは村人が大勢やって来て、出征兵土を見送るよう に盛大なものでね 。 それも年々募集も困難になった。「 豊州炭鉱に行けば日本人の女を抱かせてやる」 橋川はそんな嘘も平気でいって集めた。天皇陛下のためとか 日本のためとかいっても、その価値観が違うので理解出来ない んですよ 。 日本の女といえばすぐ理解出来るからね。私は募集に当たって、朝鮮人を馬鹿にしないこと、差別しないことを頭 に縛りつけとりましたから 。」

「北海道の夕張炭鉱から募集に来た労務係の一人は、はじめての募集で一人も確保出来ないと嘆いとった。 それに比べて豊州炭鉱はよく集めましたね 。 私一人じゃお手上げだけど、うちは橋川がついているから上手なものでね 。 家族の心理をびしゃっと掴んでいたから。 時には途方もない高額の賃金を出すと吹きかけたり、白米を 腹いっばい食べさせるとか、相手の最も関心のめる嘘をうまいとこ突いた 。 実際には 、豊州炭鉱に着いた日だけは 、それこそ白米の飯を 腹いっばい食べさせたから、まんざら嘘ばかりじゃない。 とにかく夕張炭鉱の労務係は途方に暮れて 、 どうして豊州は そんなに簡単に人が集まるのかと羨しがった。 「あんたが北海道の夕張炭鉱とかいうから集まらんのよ 。 北海道のような遠いところへ行くと 、盆とか先社の法事で帰れないと思い込んでしまう 。 北海道は内地で一番遠いことを 、みんなに聞いて知っとるからな」

「その点 、筑豊は下関から僅か一時間ちょっとのところで、とても有利な募集が出来た 。 「とにかく面事務所の人が誰も相手にしてくれません」 と 、 夕張のその労務はこぼしとりました 。」

「 橋川は両親とか妻に対して 、 「必ず月一回は送金させますから安心してください 。 私が責任を持ちます 。 家族との文通も自由です」 と朝鮮語でいうと 、 相手はころっと承諾した。 あの橋川がいても 、 帰りに行橋駅で二人逃げましたからね 。 警察に協力してもらって、すぐに捕まえました。普段からちゃんと顔つなぎをしていたから 、 豊州炭鉱といえば警察は私たち の手足のように動きました

「募集費は天引き 」

「高い募集費をかけているから 、 炭鉱としては逃げられると困 る 。 しかし 、 募集費の百円も 、 彼ら朝鮮人が働いた金から毎月 少しずっ天引きしたから 、 炭鉱としては立替えただけで 、 そんなに損をすることはない」

「満期後も経済的にも労務管理上いいので 、 出来るだけ家族を呼び寄せた 。」

「叩かれる現場をたくさん見た が 、 その時の状況によって違いはある 。 集団でサポるとか 、 係員に反抗したとか特別の場合に限られた 。 労務係は日本人と朝鮮人をはっきり区別して、朝鮮人寮につ いては 、 すべての権限を橋川隊長に任せたからね 。 叩く時は日 本人の労務はいっさいタッチせず、朝鮮人の指導員にさせた。 労務には専門の叩き屋がおるが 、 桜の木刀で同じところを叩 くと筋肉が固まってしまう。 「いいか、お前たちはこらしめのために叩くのは構わんが、 仕事に差し支えるような叩き方はするな!」 と注意しとった。しかし、逃亡があるのでしごくのは仕方が ないですわ 。 十人の班で二人逃亡したら 、 その分だけ共同責任で出炭させ ましたから 、 仲間意識の強い朝鮮人は 、 逃亡をためらったので はなかろうか 。 十人のうち二人分の負担は 、 相当きつかったと 思いますよ」

「借金をすませた朝鮮人には労務係が引率して行き、何とかして働かせるように仕向けました」

 

㉕ 至上命令 坂田九十百  p195

豊洲炭鉱上田鉱業所抗長 田川市在住(田 川 市 長)

「戦 争 に 勝 つ た め に は 、 ど ん な こ と が あ っ て も 石 炭 を 増 産 せ な い か ん や っ た 。 坑 内 の 重 要 な 部 分 の 技 術 者 と 先 山 が 応 召 さ れ 、 ご そ っ と 抜 け て し ま う と 、 石 炭 の 生 産 は ス ト ッ プ し て し ま う か ら ね 。 私 は 昭 和 十 九 年 に 、 上 田 鉱 業 所 の 坑 長 に な っ た 。 こ の 炭 鉱 の 石 炭 は 主 に 国 鉄 に 納 め て い た か ら 、 そ れ を 出 荷 出 来 な か っ た ら 、 輸 送 機 関 は 止 ま っ て 動 か ん ご と な る 。 日 本 人 の 坑 夫 が い な い の だ か ら 、 朝 鮮 か ら 強 制 連 行 し て 来 て 、 結 果 的 に は 石 炭 を 掘 る こ と を 強 制 し ま し た 。 私 は 十 九 年 の 夏 か ら 二 十 年 の 敗 戦 ま で の 一年 間 、 坑 長 と し て 働 き ま し た 。 彼 ら 朝 鮮 人 が 戦 後 も 日 本 に 残 っ て 、 現 在 、 韓 国 籍 か ら 朝 鮮 籍 へ の 国 籍 変 更 を 認 め て く れ と い っ て 来 て い る が 、 過 去 の そ う し た い き さ つ か ら も 、 私 が 田 川 市 長 と し て 認 め な い わ け に は い き ま せ ん よ」

炭 鉱 と い う と こ ろ は 他 の 産 業 の よ う に 簡 単 に 補 充 が き か な い 。 南 九 州 や 四 国 の 農 村 に 、 専 従 募 集 係 が 行 っ て 集 め て も 、 み ん な は 炭 鉱 の 危 険 性 を 嫌 っ て 来 よ う と し な い 。 炭 鉱 よ り も 他 の 軍 需 産 業 を 希 望 し た か ら 、 も う 絶 対 絶 命 の ピ ン チ に 立 た さ れ て し ま っ た」

「だ か ら 彼 ら を 朝 鮮 か ら 無 理 矢 理 に 引 っ 張 っ て 来 て未 経 験 な 坑 底 に 追 い 込 ん だ わ け だ 。 戦 争 に な る と 、 常 識 と い う も の が 通 用 し な い 時 代 で し た か ら ね 。 慣 れ な い 坑 内 で 、 真 っ 黒 に な っ て 体 力 を 消 耗 す る し 、 い く ら 食 べ さ せ て 体 養 を 与 え て も 回 復 す る も の で は あ り ま せ ん 。 一 カ 所 に 収 容 し て 自 由 を 奪 う 強 制 労 働 で す か ら 、 人 道 的 な 面 か ら い え ば 完 全 に 人 権 無 視 だ よ」

「私が豊州炭鉱の上田鉱業所の坑長になったのは、お世話にな った経営者の上田清次郎から頼まれた」

「もう昭和十九年になると募集が困難になっていた。坑長に なった日、労務係の案内で、坑内の採炭現場を視察した。 その異様な光景を見て驚いたよ 。 炭塵の舞う暗黒の坑内で 、 朝鮮人坑夫が下半身水につかって採炭していたからです。鉱害 のために陥落池があって、坑道の上は中元寺川が流れている し 、 水ガメの下を掘っているようなものだからね。昭和三十七 年 、 中元寺川の水で水没した豊州炭鉱の事故と同様な 、 危険性が昔からあったんだ」

「最高責任者」

「石炭増産の非常事態ですから 、 一日十五時間労働は止むをえません 。 毎日が大出し日と同じょうにハッパをかけ続けましたから」

「・・そのため食事は一般家庭よ りもずっと資沢で、朝鮮人に限って腹が減って働けないという ことは絶対になかった。豊州炭鉱の圧制は有名だが、それは古の納屋制度の時代のことですから」

「体力にかけては 、 とても日本人はかないません からね 。 真面目に働きさえしたら 、 休日には自由に外出させ 、 別に問題はなかったですよ。 中には逃亡の常習者がおって、それは特別に監視しました。 もう朝鮮から強制連行しようにも出来んわけですから、一人で も逃亡させると炭鉱としては生産に響くからね。 優秀な坑夫には 、 休日になると池尻にある朝鮮ピー屋に労務 が引率して行って、貸切りで遊ばせました。その代金はもちろ ん給料から差し引きました」

「古長鉱業所の朝鮮人寮が協和寮と親和寮 、 上田鉱業所が日親 寮と清和寮で 、 両方の寮の管理はすべて橋川政市に一任しておりました」

「すべて彼ら朝鮮人労務係の自主的な管理に任せとったから、 もしかしたらわれわれが知らないところで 、 虐殺事件などが起こったかも知れません」

(橋川は)「協和会の県幹部で筑豊の大ボス的存在で、飛行機献納運動をしたり積極的に軍に協力」(戦後は)「朝鮮人連盟の運動を始め」p201

「田川警察署の特高主任の満生重太郎と橋川政市 、 それに私たちは戦後もずっと付き合って」

「私が社会党の訪朝団の一員として朝鮮に行った時、橋川政市 から子供宛の手紙を頼まれた 。 北朝鮮政府からそれを渡すこと を断わられて、持ち帰ったことがある 。 朝鮮総連の幹部だった が 、 福岡の番椎の自宅で亡くなりました 。 彼に対する評価は真っ二つに分かれるが 、 これも立場の違いであって、戦争がそのようにさせたのだよ」

 

  「戦争が悪い」論に逃げ込む

 

天皇の赤子  藤本利雄

豊洲炭鉱上田鉱業所労務主任

「朝鮮から連れて来る時は 、 各自の自由な判断に任せて、決して強要はしておりません」

「橋川は 、 何をさせても要.惧のいい男で 、 同胞の朝鮮人を手なずけるのが上手でした 。 何時も労務事務所にいたが、自分から は絶対に手を出さないで、 部下の中隊長クラスか指導員にリンチをやらせましたからね 。 常に黒幕というところでしょうか。」

朝鮮人寮の出入りは自由でね。後になって本人の希望があれ ばの話だが 、 家族を呼ひ寄せて炭住に住まわせた。 昭和十九年になると 、 日本人坑夫は使いものにならないよう な老人ばかりで 、腕のある朝鮮人には仕繰りなどもやらせました」

「第一、豊州炭鉱は 、 朝鮮人のために池尻病院を建てました」

「朝鮮から連れて来ても 、 途中で逃亡するから段々と人数が崚 る 。 しかし 、 役場には二十人分を登録しているから 、 その通り に配給がある 。 煙草も酒も 、 もちらん米もあるから 、 彼らには それだけ余分に配給がある」

「食べ物は 、 一般の日本人よりもずっとよかったと思います 。 腹いっばい食べさせましたから 、腹が減って仕事が出来ないと いうことはない 。 十分に食べさせましたし 、 賃金も日本人と同じでしたから」



㉗ 特高警察 満生重太郎  p220

元田川警察署特高主任

「大正八年に志願兵で海軍に行って軍艦ばか り、除隊した昭和五年に福岡警察署に勤務して、ずっと特高畑」

「昭和十八年になると、中国人、捕 虜、それに朝鮮人が、メダカを追うように、どっと筑豊の炭鉱に強制連行されて来ましたからね」

「田川地区には 、 大手筋炭鉱の三井 、 一三菱 、 古河 、 明治と 、 それ に石炭鉱業互助会系の中小炭鉱がたくさんありました」

「田川警察署長の下に 、 特高朝鮮人係 、 中国人係 、 捕虜係」

特高はスバイなどは特に気を使って、大きな仕事の一つでし た 。 坑日抵抗運動のメンバーが大勢強制連行の朝鮮人の中に潜 入して 、 タイナマイトで炭鉱を爆破するとか 、 朝鮮独立運動の メンバーがストライキを煽動するとかいわれました 。 こちら側 も対策として 、 スパイを何人も送り込みましたからね 。 そうし た地下運動かどうのという事実は 、 最後まで分かりませんでしたが 、 取り締まるほうとしては無気味やったですよ」

「それに比べて中国人労務者の場合は、 日本占領地区からとは いえ、八路軍の筋金入りの兵士が数人いて骨が折れました。常に反抗的で、組織的に抗議したりハンストをしましたからね、栄養失調的で病身な者が多く、 炭鉱に来てからばたばたと死んでいきました」

「とにかく朝鮮募集では 、 大手の炭鉱が政治力と経済力で 、 朝鮮の労働力をかっさらって来ましたからね 。 日本人坑夫と朝鮮人坑夫の比率は逆転して、何時のまにか採炭夫は朝鮮人ばかりになりました 。 もう日本の男といえば 、 身体障害者とか子供しか残っていない時代で 、 もうあなた 、 労働 の質を聞う時代じゃなかったですよ。 朝鮮人は時の助け神で 、 彼らが炭鉱に来んやったら、軍需工場も輸送機関もすべてストップして、戦争は二年は早く終わっ とったでしょうばい。 第一、彼らの体力は抜群だったですよ。どんなに安い賃金でも文句いわんで耐える」

「私は労務担当者に対して 、 このことを口が酸っばくなるほど やかましく指導して来ました。 日本人よりも朝鮮人のほうがよく働くが、それも使い方次第 でした 。 それは脅し方一つで変わる 。」

「炭鉱は普通でも坑内事故が多いのに、戦争の末期になると資 材が欠乏して 、 坑木さえも自由に手に入らなくなった。落盤事 故などで 、 怪我をする朝鮮人が多くなりましたからね 。 炭鉱としては 、 脅して叩いて働かせても 、 石炭を増産すれば いいわけで 、 石炭を掘ることが目的ですからね 。 坑内でも一番 危険な個所を朝鮮人に掘らせて 、 その後を日本人が楽に掘ると いったことで 、 それだけに犠牲者も多いわけでね 。 施設の貧弱 な 、 保安の手抜きをする 、 小さい炭鉱ほど死亡率が高かったですよ 。」

「無理な採炭を強要するので、その危険性を知っている彼らは どうしても反発して、上から命令するから一層嫌がる。すると 指導員が怒って殴りつけて、朝鮮人坑夫を怪我させたりした」

「最初 、 大手の炭鉱に強制連行された朝鮮人坑夫は 、 小ヤマの炭鉱へ逃亡しました 。 炭鉱のあるところには 、 必ず坑夫を斡旋する専門の手配師が いて 、 炭鉱が専属К雇っている。吐八百並べ立てて、町に遊び に出た朝鮮人に誘いかける 。 飯を腹いっばい食べさせるとか 、 賃金を倍も出すからとか 、 一週間に二日の体みがあるとか 、 彼らが飛びつきそうなことをいうので 、それを信じてころっと隔 されてしまう 。だから小炭鉱では 、朝鮮募集の労なくして労働力を確保しま した 。 いったんそこへ入って見ると、聞いたこととは大違い、 圧制して絶対に出しませんからね 。 彼らは不思議とだんだん小 さい 、 条件の悪いところへと移る傾向がありました。酷使されて 、食べるだけで賃金もくれない 。 満期というものがないから 、 出ることも出来ず 、 ずい分泣かされていました」

「満期になって、帰国させるかどうかも問題となりました。 「満期になったら帰さないと、約束が違うといって暴動が起 こる」 「いや、帰したら絶対に来ないから、帰国させないほうがいい」いろいろ意見は出るが 、 もう何処の炭鉱も坑夫不足で困り果てていました 。 朝鮮へ行っても、絶対数が不足しているから思 うように人員が集まらない 。」

「見も知らない異国の土地に来て 、 寮ばかりいて外出しないか ら 、 何処へ行ったらいいか見当がつかない」

契 約 満 期 に な る 十 日 前 で も 、 貯 金 を そ の ま ま 置 い て 逃 亡 し た の で 、 私 な ん か 彼 ら の 気 持 が 分 か り ま せ ん で し た 。 朝 鮮 人 が 集 団 で 住 ん で い る ア リ ラ ン 部 落 へ 潜 り 込 ん だ ら 、 絶 対 と い っ て い い ほ ど 捕 ま ら な か っ た で す ね 。 強 制 連 行 さ れ る 前 か ら 大 阪 あ た り に 行 こ う と 決 め 、 炭 鉱 は ワ ン ス テ ッ プ と 考 え て い ま し た 。 彼 ら に は 、 親 戚 同 士 が 寄 り 集 ま っ て 暮 ら す 習 慣 が あ り ま す か ら ね 。 筑 豊 で 朝 鮮 人 坑 夫 が 働 く と こ ろ と い え ば 、 浅 野 セ メ ン ト の 原 石 山 と か 、 産 業 セ メ ン ト の 原 石 山 、 そ れ か ら 上 方 で す ね 。 彦 山 川 の 堤 防 工 事 、 鉱 害 地 の 地 上 げ 工 事 、 後 は 八 幡 製 鉄 所 の 下 請 飯 場 が あ り ま し た 。 何 処 へ 逃 げ て も 、 そ ん な に 楽 な と こ ろ が な い の に 、 彼 ら は 無 関 係 に 逃 亡 し ま し た 。 ど ん な に ひ ど い 飯 場 で も 、 協 和 会 手 帳 な し で 働 け た で す か ら ね」

「朝 鮮 で 募 集 す る 時 の 条 件 は 、 二 年 契 約 に な っ て い ま し た か ら 、 満 期 後 が 問 題 で 、 こ れ に は 炭 鉱 側 は 頭 を 痛 め て い ま し た 。 「お 前 た ち は よ う 働 い た か ら 二 十 銭 値 上 げ す る 。 真 面 目 に 働 く と 外 出 も 許 可 す る し 、 家 族 も 呼 び 寄 せ て や る 。 一年 延 長 し て く れ ん か ? 」 と 、 な だ め す か し て 契 約 の 更 新 を い い 渡 す ん で す 。 二 年 間 と い う も の は 外 出 禁 止 、 自 由 を 奪 っ て 奴 隷 の よ う に 働 か せ と る か ら 、 そ れ を聞い て 彼 ら は 怒 り ま し て ね 。 二 年 と い っ て も 、 文 書 を 取 り 交 し た わ け で は な く 、 単 に 口 約 束 が 多 い ん で す よ 。

 私 は 労 務 担 当 者 会 議 で 何 時 も い っ た ん で す よ 。 「貯 金 通 帳 も 協 和 会 手 帳 も 、 全 部 取 り 上 げ て 渡 さ な い で も ら い た い 。 そ し て 現 金 は 絶 対 に 持 た せ て は な ら な い 。 現 金 を 持 た せ る と 、 す ぐ 逃 亡 す る か ら な 」 

強 制 連 行 で す か ら 、 募 集 の 当 初 か ら 朝 鮮 へ帰 国 さ せ る つ も り は 全 く な い わ け で ねい わ ば 計 画 的 に 、 ど う し て も 帰 れ ん よ う な 仕 組 み に し と っ

「現金を持たせるな」

「炭 鉱 側 に と っ て は 特 高 と い う 権 力 を 背 景 に し て 、 朝 鮮 人 坑 夫 を 押 さ え る と い っ た 、 持 ち つ 持 た れ つ の 深 い 関 係」

「「先 生 、 近 頃 は 顔 を お 見 せ に な り ま せ ん が 、 ど う し て い ま す か ? 今 日 は 酒 が あ り ま す か ら 、 ち ょ っ と お 出 か け に な り ま せ ん か ? 」 と 、 日 川 署 の 私 の と こ ろ に 誘 い の 電 話 が か か り ま し た 。 最 初 は 遠 慮¨ し と り ま し た が 、 そ の う ち 家 の ほ う に 豚 肉 と か 牛 肉 を ど っ さ り 下 げ て 持 っ て 来 ま し た」

「当 時 、 酒 で も 米 で も 、 炭 鉱 に 行 け ば い く ら で も 手 に 入 り ま し た 。 人 数 が 多 い で す か ら 、 や り 方 一 つ で は 、 ピ ン は ね が 出 来 ま す か ら ね 。 豊 州 炭 鉱 で は 労 務 係 と 特 別 に 懇 意 に し て い ま し た か ら 、 帰 り に は 手 上 産 を い っ ば い も ら っ て ね 。 家 で は 、 戦 時 中 と い う の に 、 米 や 酒 に 不 自 由 を し た こ と は あ り ま せ ん

「豊 州 炭 鉱 に 限 ら ず 、 何 処 の 労 務 に 行 っ て も 自 由 に 物 資 が 手 に 入 り ま し た か ら ね 。 酒 が な け れ ば 地 下 足 袋 を 十 足 く ら い も ら って 来 て 、 そ れ を 酒 と 交 換 す れ ば い い 。 漁 師 の と こ ろ へ持 っ て 行 っ て 、 魚 と 交 換 し ま し た か ら ね」

「食 事 に 対 す る 不 満 は 、 炭 鉱 で は い っ さ い 問 い た こ と が あ り ま せ ん 。 炭 鉱 は 特 配 が あ っ て 、 ゴ 馳 走 は な い が 腹 い っ ば い 食 べ さ せ ま し た か ら 。 朝 鮮 人 坑 夫 の 中 で 真 面 日 な の は 、 故 郷 へ 送 金 す る こ と が 唯 一 の 楽 し み だ と い う の が い ま し た 。 当 然 、 手 紙 の や り 取 り も あ り ま す が 、 そ れ を 労 務 係 は 片 っ 端 か ら 開 封 し て 見 て い ま し た 。 特 高 と し て は 、 炭 鉱 の そ こ ま で は あ ま り 文 句 を い え ま せ ん か ら ね 。 豊 州 炭 鉱 で 朝 鮮 か ら 来 た 手 紙 ま で 開 封 し た こ と が 問 題 に な っ て 、 小 倉 憲 兵 隊 か ら 調 査 に 来 た こ と が 何 度 か あ り ま す 。 誰 か が 、 こ っ そ り 憲 兵 隊 に 投 書 し た の で は な い で し ょ う か 。」

「日本は戦争に負ける」 と 、 堂々と書いたものがありました。そうした手紙を見つけると 、 背後関係を調べるため、労務係がヤキを入れますから」

「実 際そういう暉が飛ぶと、炭鉱では混乱を起こしますから ね 。 そういう場合 、 どのように労務係が圧制しようと特高とし ては黙認していましたから。無理矢理に強制連行しているので 、 彼らは望郷の心が強いですよ。 豊州炭鉱では、寮の回りに高い板塀があって、さらに逃亡防 止のために高い監視塔を立てて二十四時間見張っていました。 これだけは 、 中の朝鮮人に悪い印象を与えるので、私が労務係 にいって撤去させました。」

「協和会の一人から連絡を受けました。その男は 、 私たち特高が炭鉱に潜入させているスパイ の一人で 、 そういう人間を何人も抱えていましたからね。」

「「日本人は平気で俺たちの仲間を殴り殺した。俺たちは全羅 南道の務安から来て二年になるが帰国もさせず、殺された李山 の両親にどう説明するのだ」 ものすごく興奮して 、 坑内ヨキを振り上げました 。「 後のことは特高の私に任せなさい 。 その李山を殺したとい う労務係はただちに逮捕する 。 これから署に連行して取り調べた上で留置場に入れる 。 さっそく検事と打合わせて裁判所に送 って殺人罪で処罰されて刑務所行きになるだろう・・・」」

「関係者の労務係を呼んで事情を聞くと、逃亡の計画のある李山を取り調べたところ、仲間の金を盗んだことが分かって制裁 をしたというんだよね」

朝鮮人の一人や二人拷間して殺しても 、 一切責任を問われることがなかった時代ですか らね 。」p230

「「一億総人の玉だ!」 橋川はそういって、県協和会で飛行機献納運動を始め、朝鮮人坑夫から献金を集めました」

「問題を起こした労務係を 、 みんなの前に引きずり出して 、今にも叩かんばかりのゼスチュァで叱りっけるんですよ 。 「私が悪うございました」 といって 、 朝鮮人坑夫の前に手をついて謝まらせます 。 それが見せかけとは 、彼らは誰も気がっかない 。 ちょっと手のこん だ芝居をしましたが 、 これも解決のためには止むをえません 。 彼らを怒らせて暴動でも起こされると 、 採炭は何日間もスト ツプしますからね 。 特高から労務係がやられたと 、 日頃の溜飲 を下げるわけでね 。 彼らは単純だからね 。 後はお決まりのコースで 、炭鉱の幹部と一緒になって、料理屋か炭鉱のクラブで一杯やって、ご苦労さんということになり ました」




㉘ 逃 亡 援 助  大 坪 金 章

 三 井 山 野 鉱 業 所 漆 生 炭 鉱坑内係

「昭 和 三 十 八 年 十 一月 九 日 、 私 は 大 牟 口 の 三 井 三 池 炭 鉱 の ガ ス 爆 発 事 故 で C O 患 者 と な っ て 、 毎 日 若 し い 闘 病 生 活」

「朝 鮮 人 寮 は 、 坑 口 の 近 く に 三 棟 あ っ て 、 管 理 は 朝 鮮 人 の 指 導 員 が し て 、 徹 底 的 に 締 め 上 げ て い ま し た 。 そ の 指 導 員 は イ ン テ リ で 、 労 務 係 の 機 嫌 を 取 り ま し た 。 上 に は 受 け が よ か っ た が 、 部 下 を 虐 待 し た の で 彼 ら の 反 発 を 買 っ て い ま し た 。」

「坑 道 を 広 げ る た め ダ イ ナ マ イ ト を 使 っ て 、 岩 盤 を 削 り 取 る 仕 事 で す 。 そ こ で は 十 五 人 の 朝 鮮 人 が 働 い て い た が 、 ガ ス が 異 常 発 生 し て い る と こ ろ で 酸 欠 状 態 に な り 、 ち ょ っ と 体 を 動 か すと 息 切 れ し ま し た 。 も の を い う 力 も な く 、 私 た ち は 黙 々 と 穴 掘り を し て い ま し た 。 発破 を か け る 時 に 避 難 場 所 を 決 め る が 、 障 害 物 が な い た め 二 人 が 逃 げ そ こ な っ た 。 岩 石 が 坑 道 を 一直 線 に 走 っ て 、 朝 鮮 人 坑 夫 を 直 撃 し ま し た 。 こ れ は 自 分 の 不 注 意 で 殺 し た と 思 っ た 。 そ れ で も 日 本 人 で な く て よ か っ た 、 二 人 が 朝 鮮 人 で ホ ツ と し た と い う こ と で ね 。 三 人 は 全 身 血 だ る ま に な っ て 、 の た う ち 回 っ と っ た 。 坑 内 詰 所 か ら 担 架 を 持 っ て 来 て 、 急 い で 昇 坑 さ せ た が 、 三 井 病 院 に 着 い た 時 に は も う 脈 が な か った」

(落盤事故の際に朝鮮人が)「 脊 髄 骨 折 し て 半 身 不 髄 の ま ま 、 鴨 生 の 三 井 病 院 で 治 療 し た 。 も う 再 起 の 見 通 し も な く 、 一時 補 償 金 を も ら っ て 朝 鮮 へ 送 還 さ れ ま し た 。」

「私 の 部 下 で 金 山 と い う 青 年 が 、 あ る 日 、 家 に 訪 ね て 来 た 。 真 面 目 な 青 年 で 、 私 は 最 も 信 用 し て い た 。 「先 生 、 折 い っ て 相 談 が あ り ま す 」 そ う い う と 、 外 の ほ う ば か り 気 に し て 落 ち 着 か な か っ た 。 「こ の 部 屋 に は 自 分 だ け し か い な い か ら 、 遠 慮 せ ん で い う て よ か 」 「先 生 、 実 は 炭鉱 と い う と こ ろ は 、 も う 一日 も 勤 ま り ま せ ん 。 早 く 上 め て し ま い た い 。 朝 鮮 か ら 無 理 に 連 れ て 来 ら れ て 、 残 し た 両 親 の こ と が 心 配 で す 。 ど う か 逃 が し て く だ さ い」

「私は坑内事故で何人もの朝鮮人を死なしているので 、 内心ど うしても負い日がありました 。 その頃 、 四国の愛媛県から勤労報国隊として来ていた一人に 事情を話して 、 金山の逃亡に協力してくれるよう頼んだ 。 勤労報国隊のニカ月の勤めが終わって四国に帰ると、まもなく四、 五人なら引き受けると連絡がありました 。 一端 、 炭鉱から脱走 して 、 それから朝鮮へ帰ればいいと私は考えた 。 私は喜んでそ のことを金山に伝えた 。 金山は同室の仲のいい青年たちと相談して、五人一緒に逃亡 することを決めた 。 私も彼らの逃亡を成功させるために、四国 の松山まで送って行こうと思ってね」

労務へ連れて行かれた五人は、そこで徹底的にしごかれたの です 。 そのうちの一人が 、 遂に逃亡のことを自状してしまっ た 。 労務から特高へ報告され、さらに憲兵隊へ取り調べが進む につれて私の名前が上がった。 私の部屋も家宅捜査されて、五人の荷物が発見された。私が 金山たちから金を受け取って、逃亡を斡旋したということにさ れてしまった。当時の炭鉱では、逃亡援助とか坑夫斡旋は、最 も罪が重いことだった。 そうした事件を全く知らない私は、午後三時、交代勤務で昇 坑して来ると、坑口に労務係と憲兵が待っていた。 「おい、大坪。ちょっと憲兵隊の詰所まで来い!」 憲兵が叫ぶと 、 労務の二人が両脇から私を掴まえた。 憲兵隊の詰所まで行くと、年配の上津原労務主任が、腕組み してきびしい顔で私をにらみつけた 。 部屋の隅には、金山たち五人の朝鮮人が、仝身血まみれでう ずくまっていた。その異様な光景に接して、私はそこで何が行 われていたのか察しがついた 。 四口への脱走計画がバレたこと をはじめて知った。 巡査が来て手錠をかけて休中を紐でがんじがらめに縛って、 今度は労務事務所へ連れられて行った。そして柱にくくられて動けなくなった」

「それから見せしめのためだろうか 、 朝鮮人のいる東寮に移さ れた 。 そこで憲兵 、 巡査 、 労務は二十四時間というもの 、 交代で私を殴りつけた 。「 貴様は何という大それたことをするのか。この非常時に国賊だ!今までに半島を何回逃がしたのか!」 上津原労務主任が怒鳴った。その後で、朝鮮人労務が青竹 を持って来ると先を割って広げ、水を漬けると私の背中を殴り つけた 。 日本人労務からやられる時は仕方ないと耐えとったが、朝鮮 人の労務から殴られると口惜しくて涙が出てね。それはもうなぶり殺しですたい。 一日中ひっきりなしに叩かれると、このまま死んでもいいような気持になる 。 痛いと感じる時はまだ意識がある時で、最後 には何もかも分らなくなる 。 戦地で負傷して 、 まだ完全によくなってない足腰を叩くの で 、 悲鳴を上げて転げ回った。 今までの労務のリンチといえば、やられるのは朝鮮人ばかり だった。今度は逃亡をそそのかした日本人だというので、その リンチたるや想像を絶する激しさだった。窓を開け放して、彼 らにこれ見よがしにみせしめをした 。 何度も失神して倒れると 、 頭を掴んで起こして青竹を取り替 えた」

「二日日 、 叩き疲れた労務が居眠りを始めると、察の朝鮮人坑夫の一人が、自分たちに配給されたパンを、こっそり転がしてくれた 。」

「私は最後の力を振り絞って、「 俺を殺してくれ。俺は戦争で名誉の負傷をした男だ。も う 、 一度は死んだ体だ 。 どうでも勝手にしろ!」 と叫んだ 。 憲兵が傷夷軍人を足蹴りして、殴りつけたとなる と笑い者だった。途端に憲兵は蹴るのを止めて出て行った。夜が明ける頃には 、 一人去り二人去りして、最後に残った労務バツの悪そうな顔をして近寄って来た」

「私は金山たちに同情したまでのことで、 決して悪意でやった ことではないですばい 。 ただ歩いているところを捕まえられ て、両親にも会えずに強制連行されたと聞いて、止むに止まれずに助けた。私を叩いた朝鮮人労務は、報復を恐れてそれか らすぐ姿を消していた。その翌日 、 私は不都合解雇をいい渡されて、漆生炭鉱から追放されました」



㉙ 憲兵 丸山正憲 p257

井田川鉱業所第四抗坑内係 川崎町在住

「昭和十八年に三井の技能者養成 所に入り 、 十九年 、 川崎の三井四坑に配置された 。 わしは坑内電気の仕事で 、 採炭が終わって引き揚げた後、結線して次の二番方が作業が出来るようにセットした。わしが入社した頃の現場は 、 技術関係は日本人の熱練工が足りなかったので朝鮮人を何人か使った。トランスの移動とかエンジンの移 動など 、力の要る仕事場には朝鮮人は貴重な存在でした」

朝鮮人の弁当はコーリャン飯で、おかずはタクワンが三切れだけの粗末なもので 、 時々昆布が入っていた。

 「お前たちは毎日赤飯でいいの―」

と、わしたちは彼らを冷かしとった。あんな食べ物でよくも 体が続いたものだと不思議だった。」

朝鮮人寮は平屋建てで、真ん中に通路があって両方に小部屋が並んでいた。その建物が三棟あって、寮の周囲はニメートル五〇センチくらいの板塀と有刺鉄線が張られとった

「労働時間はあってないようなもので、三函以上のノルマがあ り、その見込出炭をしないと昇坑させないからね」

「大体、毎週土曜日になると大出し目があって、これは何処の 炭鉱も同じ 。 土曜日の朝入坑して 、 翌朝まで二十四時間労働に なるのでお腹が減ってね、メリケン粉(小麦粉)の中にどんぐり粉を入れた茶色のパンを、夜中に二個だけ差し入れがあっ た 。 朝鮮人は寮の食べ物が悪いせいか、栄養失調ぎみで朝方に なるとぶらふらして採炭しとった。採炭は重労働なので、相当な力ロリーを取らんと仕事が出来んが、食べさせんで働かせるから無理だった。腹が減って仕事が出来んとか、腹痛でノソン (無断昇坑)することがあると 、 すぐ憲兵から呼び出されて半 殺しの目に遭わされたからね」

「同じ坑内でも個所によっては、とても熱いところと肌寒いようなところがあるですよ」

「私が入る前にガス爆発があって、朝鮮人が五、六人死んだら しい 。 普段からガスは多かったが、第四坑の無煙炭の下のほうで爆発があって、それが坑口まで吹き上げた」

「炭鉱というところは 、 何時事故に遭うか分からない 。 私の友人の叔父が 、 朝鮮人を連れて入坑している時に天丼が抜けて即死した 。 畳一枚分のボタを 、 頭から被っとるが、朝鮮人はみんな助かった。 ポンプの移転で上の工作所で作業をしている時、助かった朝鮮人たちがもう恐いから入坑しないといい出してね」

「Nのご主人が戦死して 、 そこの女房というのが身がもてんでね 、 男なら誰でもいいと誘い込んどった。それを何処で知った か 、 朝鮮人があの高い板塀を脱け出て代る代る押し寄せて、た ちまち有名になったが誰も笑う者はなかった」

「池尻から後藤寺に行く途中の上原に、朝鮮ピー屋(淫売屋) があってそこに朝鮮の女がいっばいおった。女子挺身隊といっ て 、 編されて連れて来られとった。日本の淫売屋の女よりもずっと安いからみんな通ったもんだよ。」

朝鮮人の喧嘩の長さには驚いた 。 最初殴り合っとるが、必ず 誰かが仲裁に入って両者のいい分を開いてやった。そして「お前が悪い」と一方に軍配を上げると 、 悪いといわれたほうはそうではない 、 相手が間違っていると反論する。 それは猛烈な口論になる 。 すると仲裁人は、煙草を一服する ように納めて休憩させる。それから再び始める。夕方になって もう終わったかと思ったら、翌朝、また昨日の続きの喧嘩を始めた 。 あきれたことに 、 一つの喧嘩を延々と三日間も続けたからね。」

「同じ川崎の豊州炭鉱では、朝鮮人はむげない目に遭うとる よ 。 〃一に豊州二に泉水、三に崎戸の鬼が島″といわれるほど、 日本一の圧制ヤマやった。坑内火災で、採炭している朝鮮人が 生きているのに、もう助からんから放っとけと、密閉して皆殺しにしたと聞いた 。 私の家のすぐ隣が高倉炭鉱で、社長自ら朝鮮まで募集に行ったからね 。 朝鮮人寮に入れて回りを高い板塀で囲って、中で何 が行われているのか他からは見えないからね。殺されたって板塀に目隠しされたようなものでね 。 高倉とか江藤とかの小ヤマの労務は威張ったもので、暴力団というか全身入墨のヤクザを使っていたからね。とにかく石 炭掘れ掘れの時代で、石炭を一トンでも採炭させなければなら ない 。 労務は炭鉱の私設警察のようなもので、炭鉱経営者はそ れを利用して大儲けしたからね 。 三井第四坑の労務も同じようなもので、軍需工場に指定され て憲共が来ると、憲共を利用して脅しをかけた。 「お前たちは寮の朝鮮人と親しくするな」

憲兵は飯塚憲兵分遺隊から二人来て、労務事務所の一室に常駐して監視した。 憲兵労務を連れて朝鮮人寮を回って、休んでいる者を労務事務所に引っ張って来た。 「そんな怠け根性では戦争に勝てん。この非国民が!」 憲共は小銃の銃尻でぶん殴ったからね。憲兵に泣かされたのは 、 朝鮮人ばかりじやない。 終戦になると、憲兵はいっせいに逃げたからね。叩かれて片足松葉杖をつくようになったある坑夫は、火のごとなって日本国中探し回って見つけ出し、報復を果たしたからね。あの長靴で蹴られたら、とてもじやないがひどい打撲を受けて片輸になってしまう。憲兵という権力でもってやると、朝鮮人なんか人間のうちじゃなかったからね。 終戦になると、朝鮮人にひどいことをした労務は、身に危険 を感じてみんな逃げ出した。朝鮮人の立場は逆になって、炭鉱 の幹部連中はペコペコしとった。 帰国船が出るまで帰れないから、彼らは私のところに百姓の 手伝いに来たので、白米を炊いてたっぶり食べさせると大変喜 んでね 。 強制連行された朝鮮人は早く帰国したが、所帯持ちは 今でもずい分残っとるよ」

㉚三十数回目の強制連行 竹原三二 p265     

元大正鉱業所中鶴炭坑労務係 仲間市在住

朝鮮総連の遠賀地区の前委員長趙永熙君は、私が昭和十八年に朝鮮から強制連行して来た男です。日本名を白川といいます が、当時二十歳ちょっと。時々顔を合わせると、「あんたがわし を無理ヽ理に引つ張って来たからだ」と恨みごとをいわれる。 それでも趙君を引率隊長にしたので、たいそう誇りにしよるごとある。頭のよか男で統率力はあるし、炭鉱に着いてからも朝 鮮人寮の舎監助手をさせた。彼から恨まれるのは仕方がない、 子供が生まれたばかりの時に強制連行して、最後の別れもさせちょらんからね。それを考えると、やっばり気がひけるですよ」

「最初のうちは希望で日本へ連れて来て、次には半強制的、それから強制的な徴用ですよ 。大正鉱業所の募集地域は南朝鮮の 労働力が対象やったが、だんだん底を突いておらんから、北朝 鮮へと足を伸ばした 。 みんな行きたがらんから 部落で若い者 を捕まえては 、 警察署の留置場に入れた 。 それが三十人 、 五十 人とたまったら前後を護衛つきで、バスやトラックで鉄道の沿 線まで運んだ 。 私自身 、 三年間で三十数回強制連行して 、 いわ ばその張本人ですからね」

「これは単に炭鉱のことではあるが 、 何んとかい っても強制徴用して、しかも強制労働をさせた事実は事実です たい 。 それは大いに反省しなければならないし 、 日木の総理大 臣以下 、 国民は心から朝鮮民族に詑びなければならないと思う」

「すると坂田が、兄「さん そげんことしよると勤報隊の徴用か、軍隊に応召されるから止 めときない 。 炭鉱勤務なら兵隊逃がれが出来る」といいますたいね」

「昭和十七年頃は募集に行くと 、「私も連れて行ってくれ」と 泊っとる旅館まで申し込みにやって来とった。十八年に入ると 誰も来るどころか嫌がって、募集に行くとそこの若い者は山の 中に逃げ込み姿を見せない 。 他の面の親戒の家に逃げたりし て 、 探しても何処にもいなかった。面巡査が、彼らを探し回る のに骨折ったですたい。面巡査は何処の部落のどの家に誰がお るかは分かっとりますからね。今度はあの男を引っ張ってヤろうと 、 面事務所の募集係と巡査がリストをこしらえておる 。 と ころが行って見ると、その家には姿が見えない。何処へ行った かとたずねると 、 行き先はさっばり分からん。割り当て人数が 決まっていても、期日まで集まるとは限らないので、どうしても半強制から強制となって、もう理由もなしに誰でも強引に連 行するようになった。 しかし 、 彼らは逃げて逃げて、やっと捕まえて炭鉱へ強制連行するので 、 将来に対して不安を持っている 。 それで最初はいいことずくめの話をして 、 ご販は腹一杯あるとか 、 賃金はいい とか 、二年満期になると必ず朝鮮に帰すとかね 。 時にはお前た ちは国の方針で徴用令をかけられているので 、 もし逃げたりし たら大変なことになるぞと 、脅したりしたこともある 。」

「中村実という方は 、 朝鮮の慶尚北道義城郡で巡査部長をしている時 、 大正鉱業にスカウトされて、労務係の主に現地募集の担当やった」

「巡査という 昔の肩書きもあるがとても高圧的 で 、 募集人員が集まらないと大声で 怒鳴りつけた 。 面長は地元の朝鮮人 だし 、 彼の前ではびくびくしてね 。 郡長とか面長の対応は 、 私が最初に行った頃はまだ非常に協力的でし た 。 昭和十九年になると 、もう面の 中に労働者がいないので 、 行っても あまり受けがよくなかった。やっばり表面切って反対出来ない事情があ ったようで、嫌々ながら集めるが、 彼らも無理をするとそれだけ村人か ら恨まれるわけで 、 痛しかゆしだっ たようだ 。」

「そのうち各炭鉱 も北朝鮮に集中したから 、 どうしても競争が激しくなる 。」

   *崑崙丸ー1943年(昭和18年)10月5日沈没

「身代りというのは、私の経験の中で二、三回」

「募集が困難になると、一人でも逃亡させるわけにはいかないからね 。 各地の駐在所というか警察の留置場に入れて 、 割り当て数を達成するまで待たせるから安全でした 。 一定の人数が集まると 、これこれにおるから迎えに来てくれ と総指揮を取る私に連絡がある 。 留置場に入れて監視しておかないと、募集に来ていることを聞いただけで嫌がって逃げるからね 。 今から考えると、罪人でもないのにひどいやり方をしたものだ。田舎になると,バスも汽車もないから 、 トラックをチャターして近くの町へ運んで 、 みんなを警察署の留置所に入れた 。 面を出発する時には 、 家族がトラックにとりすがって、別れを惜しむ光景をしばしば目撃しました」

強制連行も末期になると 、 途中で逃げる者が多くなりましてね 。 トラックが停車した時に 、飛び降りて逃げる。」

「寮生が一番多い時は全部で約四千人」

「徹底した帝国臣民化教育をさせないかんというて 、 学校から 佐藤先生を労務係に呼んで教育を担当させた 。 軍事訓練は 、 労務係の田村が担当して 、 繰込み(入坑)前の体操をさせた」

「中鶴炭鉱では八時間労働が基準で 、 他の炭鉱のような函数 (出炭トン数)計算ではなかった」

「土曜日で翌日が休みという場合は 、 大出し日を設けて 、 これは当然見込出炭となる 。 その日のノルマがあって、割れる場合 には目標まで頑張らせる 。 中鶴炭鉱は 、 朝鮮人の管理について は比較的に評判がよかった」

「坑内で採炭中に坑内係が朝鮮人を叩いて、それを本人が寮で 話したことで 、 寮生が怒って全員で労務事務所に押しかけて来 た 不 。 隠な空気になったので、折尾警察署に電話して、特高たち がトラックで鎮圧に来たことがある」

「私が見ていると 、 朝鮮人の中でいいのも悪いのもいて 、基本的には自分から進んで来たわけではないので 、 そこに問題があ った。働かないたやかましいのだから、仕方なしに働かぎるをえないが 、 一般的によく頑張ったと思う」

「中鶴炭鉱は、二年満期だけは必ず守っていた。そうしない と 、 次の募集に必ず支障が起こりましたからね。希望者は残っ て 、 妻子を呼ひ寄せて炭住に住んでもよいといって、朝鮮から の旅費を全額出してやった。一時帰国する場合は、私たちが送 って行き、募集して来る時に家族も一緒こ迪れて来た。 もちろん一時帰目の旅費はk鉱負担だった。 事件を起こしたことで炭鉱として強制送還の例はないが、そ ういう場合はすべて折尾警察署の特高に波してしまい、その男 をどうするかは向こうの処置に任せていた。強制送還したかど うかは 、 炭鉱としては一切分かりません 。 朝鮮募集では、炭鉱事故は一切タブーだった。怪我は勿論、 落盤とか、ガス爆発とかは炭鉱では一年中あって、今日も昨日 もと引続きましたから 。 落盤事故で脊髄骨折して、半身不随に なった者を労務係をつけて送り返したこともある。その場合 は 、 見舞金を持たせて帰しました。」

「事故死すると、遺骨にして故郷に送り返しました。大体、舎 監が代表して行くか、労務係が行くのが普通で、私たちの場合 は遺骨を送り届け・・・」

「その 時 、 朝鮮に行った労務の募集人から、早く迎えに来いと電報が たくさん届いとった。各部の警察の留置所に放り込んでいたので 、 何処もその処置に困ったらしい。せっかく苦労して集めとるから 、 早′受け取りに来るように催促の電報ですたい」

終戦の時 、 中鶴炭鉱には朝鮮人坑夫は約二千人いましたから ね 。 人数が多いので一度に乗船させられんから 、 百人単位で博 多まで連れて行った。八・一五当日は、中鶴炭鉱では午動はな かったが不隠の動きはあった。無理矢理に強制連行して来てい るから 、 何が原因で今までの不満が爆発するか分からない 。 そ れだけに彼らの要求を入れてやろうと 、 労務係の骨折りは大変 やった」

朝鮮人坑夫と日本人の娘とが恋仲になって、親もあきらめて 結婚させるつもりやった」



㉚麻生朝鮮人争議  宮崎太郎  p342

元日本石炭坑夫組合主事

「当時 の炭鉱の納屋というのは、独身坑夫の大納屋と所帯持ちの小納屋があって、肩入金をもろうて借金のある者は一生出られんで すたい 。」

労働組合を組織しようにも、二、三人集まって話すだけで、 請願巡査とか労務係から引っ張られて叩かれるからね。待遇改 善とか労働条件の改善を交渉しようにも、先ず組織をつくるこ とも出来んやった。もう坑夫と来たら、力の前に泣き寝入りを するしかない 。 昔はそれでよかったかも知れんが、坑夫の意識が変わって来 たのは米騒動からやった」

「われわれが〃筑豊ゼネスト〃と呼んだ 、 日鉄二瀬炭鉱の高 雄坑の争議が印象に残っとる。日鉄系の稲築坑、中央坑、潤野抗と時の住友中隈坑に広がって、自然発生的にストライキが起ったですたい 。 最初、 日鉄高雄坑で抗内に入ってのストライキが始まった 時 、 それは共産党系の全協が指導したが 、 官憲から弾圧されて 役らには手におえんので 、 日本石炭坑夫組合の私のところに立 野二君と伊小述君の二人が応援を頼みに来たですたい 。 あの頃は 、 会社や警察 、 暴力団の干渉がひどくて 、 今協では 片っ端から検挙されてしまうので、どうしていいか今からんとたい」

「朝鮮からの渡航制限があって、坑夫を自日に採用されんから 工規の手続きを経ずに 、 三菱 、 只島 、 麻生の炭鉱は朝鮮人をこ っそり密航させとった。特に大手の三菱と麻生は、朝鮮人坑夫 を三分の一から四分の一使いましたからね」

コラム)イ・ヨンフンの「新羅時代から、反日が始まった」論の源を考察する

 

 

イ・ヨンフンは『反日種族主義』の中で、次のように述べている。

ふつうの韓国人は 、 日本に対し良い感情を持っていません.不快な 、 あるいは敵対的な感情を 持っています。それは長い歴史の中で受け継がれて来たものです。私は七世紀末、新羅が三国を 統一したときからそうなったのではないかと考えています。(p201「17、反日種族主義の神学」)

 

 

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 動画「反日種族主義の神学」から

 

 

彼らが「反日種族主義」と呼んでいるものの起源について述べているのだが、「七世紀末、新羅が三国を 統一したときからそうなったのではないかと考えています」と言いながら、なぜそう考えるのかは明らかにしていない。

実はこれとほとんど同じ事を日本の国粋主義者も述べている。

例えば、拳骨拓史は『韓国「反日謀略」の罠』や『「反日思想」歴史の真実』で、「韓国はいつから反日か?」と問いかけ、その答えとして「朝鮮人が日本を軽蔑し、怨敵視する風潮は、新羅時代までさかのぼることができる」と書いている(『韓国「反日謀略」の罠』p171)。

拳骨によれば、それは「日本に捕縛された宰相が、死んでも日本の部下になる事を拒絶した話」が「おとぎばなしのように子供たちに語り聞かされた」からだという(グーグルブックス)。

books.google.co.jp

当時の新羅の人が日本の手下になる事を拒んだとしてそれがなぜ「日本を軽蔑し、怨敵視する風潮」になるのかはさっぱり分からない。外国の支配を受け付けない自主独立の気風の現れでしかない。ゆえにこれはコジツケだろう。

 

反日種族主義』はこういったものに無条件に影響を受けているのではあるまいか?

すでに、西岡力秦郁彦、岡田邦宏らに影響を受けている事を言及してきたが、ここで拳骨拓史の名前も出てきたので、拳骨のプロフィールを簡単に説明すると、拳骨は名越二荒之助の弟子であり、産経新聞社傘下の扶桑社から、既述の『韓国「反日謀略」の罠』や『「反日思想」歴史の真実』それから『日中韓2000年の真実』などを出している。

言うまでもなく、産経新聞社の月刊誌『正論』やWACの『歴史通』、PHP研究所の『voice』等に複数の文章を書いている。『韓国人に不都合な半島の歴史』はPHPから出ている。

著作にはかなりの数の参考文献が挙げられているが、ヒモ付けされていないので、どの部分が何に根拠を置いているのかは分からない。検証可能性を満たさない右派の価値の低い著作物の一部である。

 

 

 

 

 

西岡力の労務動員(強制連行)論説について 1「家族呼び寄せ」を知らない西岡力

 

 

反日種族主義』のイウヨンの主張は、西岡力、岡田邦宏、勝岡寛次等の主張に多分に影響を受けている。西岡の主張の問題点についてはすでに前頁で、簡単に触れている。

https://horikekun.hatenablog.com/entry/2020/08/08/164258


ここでは、より詳しく西岡の労務動員(強制連行)論の内容を見てみよう。

労務動員(強制連行)に関する西岡の著作は

1992-8『日韓誤解の深淵』

2005.6『日韓「歴史問題」の真実 「朝鮮人 強制連行」慰安婦問題」を捏造したのは誰か』

2014.11 朝日新聞「日本人への大罪』

2018ー114 「朝鮮人戦時動員に関する研究(2)、手記の検討 」(歴史認識問題研究』第3号)

2019-2 『歴史を捏造する反日国家・韓国』

2019-3 『正論』増刊「歴史戦 虚言の韓国 捏造の中国」

2019.4『でっちあげの徴用工問題』

 等である。

 

 

    西岡力労務動員(強制連行)論の問題点

 西岡は西岡自身が述べているように、歴史学者ではない。「韓国・北朝鮮の地域研究者である」という(『 歴 史 認 識 問 題 研 究 』 第 2 号 (2018年3月15日)、p11、「歴史認識問題とは何か」西岡力)。

それゆえに、資料を読みこんでいないのであろう。

 その論説の問題点の一つは、野中広務への批判である。

 

1 野中広務への批判を考察する

 

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西岡は『日韓歴史問題の真実』で野中広務の証言を否定してこう書いている。

 

いまだに戦前の日本の悪業として「朝鮮人強制連行」が内外でしばしば取り上げられている. たとえば、野中広務自民党幹事長(当時)は韓国・朝鮮への過去の清算の必要性を強調するな かで 、 日癖のように 、 戦争中 、 自宅近くで「強制連行」された朝鮮人労働者がひどい待遇を受け ていたと語っていた。しかし 、その労働者は家族持ちで子供がいたとも語っている。
語るに落ちたとはこのことで、「強制連行」されたのなら当然、家族と離ればなれになっているはずだ。 

その時代に生きていたからといつて、出来事の本質が理解できるとは限らない。そこでまず、いわゆる「強制連行」がどのようなものであつたのかについて、見ておきたい。

(p38~p39)

 

 

「「強制連行」されたのなら当然、家族と離ればなれになってい るはず」だから、野中の証言は「出来事の本質が理解できていない」という。

 

また『でっちあげ徴用工問題』でも、

 

いまだに戦前の日本の悪業として「朝鮮人強制連行」が内外でしばしば取り上げるれている。

たとえば、故人ではあるが、一時期政界を牛耳っていた野中広務自民党元幹事長は韓国・朝鮮 への過去の清算の必要性を強調するなかで 、 戦争中 、 自宅近くで「強制連行」された朝鮮人労働 者がひどい待遇を受けていたと口癖のように語っていた。しかし 、その労働者は家族持ちで子供がいたとも語っている。
語るに落ちたとはこのことで、「強制連行」されたのなら当然、家族と離ればなれになっているはずだ。 

その時代に生きていたからといつて、出来事の本質が理解できるとは限らない。そこでまず、いわゆる「強制連行」がどのようなものであつたのかについて、見ておきたい。

(p134~135)

 

とまったく同じ文章を書いている。この「まったく同じ文章をいろんな著作に書く」は、西岡力の特徴の一つで、たくさん著作物はあるが、中身はスカスカであるというしかない。同じ文章を掲載するだけなら、本を書くのも楽でいいだろう。

西岡は「「強制連行」されたのなら当然、家族と離ればなれになっているはず」という理由で野中の証言を否定しているが、この前提がまずおかしい。

なぜなら、動員された朝鮮人に対する「家族呼び寄せ」は、各事業場や朝鮮総督府と帝国政府が、逃亡防止・労務者定着のために推し進めて対策だったからである。

 

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朴慶植在日朝鮮人関係資料集成 第四巻』のp14には内務省警保局の『朝鮮人労務者移住促進二関スル緊急措置二関スル件』という公文書が掲載されており、これには「逃走其他移動防止上移住労働者ノ家族呼寄ハ頗ル効果的ナルヲ以テ一 層之ヲ促進スルコト」が述べられている。

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これを受けて企業側でも、逃亡防止と定着のために家族呼び寄せを推奨していた。例えば北海道炭鉱汽船株式会社の例では、昭和16年10月に「家族呼び寄せの促進」を決定している(『70年史・勤労編』)。

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1942年1月~1944年9月までの「官斡旋」と呼ばれる時期には「家族呼び寄せ」はあまりなされていないが、それでも記録が無いわけではなく、住友鴻之舞鉱業所は、42年6月ころ、「家族呼び寄せ」を行っている。

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 (『戦時外国人強制連行関係史料集3 朝鮮人2下 』 林 えいだい監修・責任編集)

 

住友鴻之舞鉱業所は、やがて昭和18年(1943年)には産業統制の結果一時的に閉山化するのだが、その際に他の鉱山・炭鉱などに労務者の移転を行った。その移動の際、かなりの数の労務者の家族がいた事が記録されている。

 

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  (『戦時外国人強制連行関係史料集3 朝鮮人2下』 林 えいだい監修・責任編集)

 

労務動員関係資料を漁っていると、必ず「家族呼び寄せ」史料に複数出会うのだが、西岡はそもそも資料集をちゃんと調べた事がないらしい。

 

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実は西岡力は1992年の『日韓誤解の深淵』ですでにこう書いている。

徴用であれば足手まといになる家族を呼ぶことなどもともとあり得ないはずであるが、前記のようにSさんはご主人を追って樺太まで行っている。p199

 

「徴用であれば足手まといになる家族を呼ぶことなどもともとあり得ないはず」という想像から、Sさんの証言を疑っている。

しかし足手まといであろうと何であろうと、「家族呼び寄せ」は政府や企業に推奨されており、徴用を含め、労務動員の歴史の中でしばしば行われていたのである。

 

 

 

近年(1990年以降)の強制連行否定論の歴史を概観する

 

 

産経新聞や『正論』『WILL』『hanada]』『諸君』『voice』『sapio』『文芸春秋』『文春』『新潮』など、右派言論人の発表の場である右派月刊誌・雑誌には様々な主張がなされているが、掲載価値がないものは割愛させていただき、代表的なものだけを掲載した。

 

特徴1)

事実関係について資料や証言をまるで使わないが、断言する(知らないのかも知れないし知っていても無視するのかも知れない)

わずかでも資料を使っているのは、西岡力 岡田邦宏 水間政憲 杉本幹夫くらいだろうか

しかし使っている資料は少なく、被害を受けた韓国人の証言はほぼ使っていない。(岡田は『百万人の身世打鈴』から少し引用有り)同時に日本人の証言(目撃譚)もほぼ使っていない。

 

特徴2)

資料は知らないが「強制連行という歴史の捏造」「酷いでっちあげ」「朝鮮人強制連行慰安婦問題を捏造した」などの攻撃的言動が多い

 

特徴3)

「そ の 多 く は 自 発 的 に 来 日」論は、名越二荒之助の『日韓2000年の真実』『[検 証 ] 強 制 運 行』で勝岡寛治 が使用して以来、西岡や岡田、黄文雄らによって継承されている。『反日種族主義』ではp68~p69等に、イウヨンが使用している。

 

特徴4)同じ資料しか使わない

例えば西岡力は、1992年の『日韓誤解の深淵』朝鮮人徴用工の手記』を使って以来、必ずと言っていいほどこの著作を使っている。

以下

2005.6 『日韓「歴史問題」の真実 「朝鮮人強制連行」慰安婦問題」を捏造したのは誰か』

2014.11 朝日新聞「日本人への大罪』

2018ー114  西岡力「朝鮮人戦時動員に関する研究(2)、手記の検討」歴史認識問題研究』第3号、徴用工特集「朝鮮人戦時動員に関する研究」

2019-2 『歴史を捏造する反日国家・韓国』

2019-3 『正論』増刊「歴史戦 虚言の韓国 捏造の中国」西岡力 櫻井よしこ

2019.4 『でっちあげの徴用工問題』

などで使われており、同じ主張を繰り返している。

もう一つの資料『逃亡セル集団移入半島徴用工員の諸行動に関する件』と言う内務省資料の「金山正損の手記」(『在日朝鮮人関係資料集成第5巻』p50-53)も、(『日韓誤解の深淵』以外で)多く使われている。

 『日韓歴史問題の真実』、『朝日新聞「日本人への大罪』、『正論』2019-3増刊「歴史戦 虚言の韓国 捏造の中国」等では、『逃亡セル集団移入半島徴用工員の諸行動に関する件』の「金山正損の手記」の引用元を『在日朝鮮人関係資料集成第4巻』にしていた。

正しくは「第5巻」であり、『歴史認識問題研究』の論文では是正されていた。

 

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 ●1990 新井佐和子 「サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったのか」 (一筋縄では行かない日韓問題<特集>) 現代コリア   (通号 303) 1990-07 

新井佐和子の論文一覧 (西岡に影響を与えている)

https://docs.google.com/document/d/e/2PACX-1vRLfq6zjHgkJFkWipmd7IHAXHsyDVB8AFmiTjG-a5bpHpUvQqa-x8xvf7gTI9uzsDSlAwfRPF-KxeNi/pub

 

 

  • 1992-8 西岡力『日韓誤解の深淵』

強制連行 「厚遇だった」 「日本人も強制連行された」

朝鮮人徴用工の手記』忠海(チョンチュンヘ)(1990初版)

https://docs.google.com/document/d/e/2PACX-1vTxqLDClairTQp-Q_GU4VJcIrY9O42C0PZ9q6PGJ5BYtL-OiTbSUYrqX-czC6Iep4cY0So8-IVzPCqV/pub

 

 

 

  • 1997 『日韓2000年の真実』名越二荒之助(なごし ふたらのすけ)編著 p400~401

『[検 証 ] 強 制 運 行』【勝岡寛治 】

「そ の 多 く は 自 発 的 に 来 日」論

https://docs.google.com/document/d/e/2PACX-1vTIb2iaK5rNHlBAYhKLwRHIxoHdTbpDkj7I09P8KI1jzp4AdzvDg6F32RWZ0Ed9S-ElQKHY_64WS9AI/pub

 

   メモ)   勝岡寛治『抹殺された大東亜戦争』他

   勝岡寛次明星大学) 『教科書が教えない歴史』2「復讐劇だった

   山下・本 間裁判」、3

  『祖国と青年』(日本青年協議会【45年】橿原かしはら神宮 三島由紀夫 

   葦津珍彦)64 (1983~)

  「歴史認識問題研究会」事務局長 事務局次長は長谷亮介

 

  • 2000-8~11『月曜評論』(ミニコミ誌2004年8月号廃刊)

西岡力「韓国・朝鮮講座③~⑥朝鮮人強制連行説の虚構」上 中 下

     ↓

   「慰安婦問題」を捏造したのは誰か』 PHP研究所 

  「すべてはウソから始まった。韓国の「反日」を煽る日本のメディア」

「大統領が「賠償」という言葉を持ち出したことは1965年以来の日韓友好関係を否定することを意味し、また「朝鮮人強制連行」「慰安婦問題」など事実に基づかない歴史議論が拉致問題解決をも妨害しているからだ。そうした「反日」議論を煽ってきた人々の嘘八百の言説を論破する。」

https://docs.google.com/document/d/e/2PACX-1vQq2hCrMVWxCYJ3Ikt7Eq2mbIZi1Fie4YvYjHr5UokyPBNm_DokhbSE_czL32eQZGED-BOLpvsQKTGl/pub



  • 2002 杉本幹夫『日本支配36年 「植民地朝鮮」の研究 謝罪するいわれは何もない』

「平成九年発行の大阪書籍の中学教科書∫では 、 強制連行の様子とし〈町を歩いてい る者や 、 田んぼで仕事をしている者など手あたり次第 、 役に立ちそうな人は片っ端から 、 その ままトラックに乗せて船まで送り 、 日本に連れてきた 。 徴用と言うが 、 人さらいですよ〉と記 載されている 。 これは明らかな犯罪である」

「しかし終戦の日の直後に各地で起きた、朝鮮人徴用工の暴動は、彼らの労働条件の苛酷さを物語るもので、遺憾に堪えない」

「強制連行されたと言われる人の実態の例を示す 。 忠海チョンチュンヘは四四年一一月徴用令状を受け取り」「東洋工業の待遇が特別良かったのであろう」

「金正三は・・・逃亡を幇助・・拷問を受け・・」

「強制連行とはいやがる人間を力ずくで連れていく事である。日本のマスコミや高名な学者が、徴用令による徴用を強制連行と呼んでいることは明らかに間違いであり、許せない間違いであ る 。 まして官斡旋は決して強制連行ではない。官斡旋や徴用令の場合、徴兵と同じように出頭する時間、場所が指定され自発的に出頭したのである」



<伊藤 哲夫は日本会議常任理事(政策委員)元生長の家チャンネル桜の開局記念番組で安倍と対談し、しきりに安倍を「保守革命のリーダー」と持ち上げていた>

 

「『募集』期間に相当する昭和十四年から昭和十六年の二年間で 、 内地渡航した朝鮮人は約百七万であるのに対して 、そのうち『募集』制度に則って内地に渡航した朝鮮人は約一四万七千人にすぎない。つ まり 『募集』以外に約九十二万人もの渡航者がいたのである」。この流れは「斡旋」「徴用」の時期についても変わらなかった。「戦時動員と平行して 、かくも膨大な朝鮮人が自らの意思で日本に渡航して いたわけであり 、 この事実を踏まえれば 、 嫌がる朝鮮人を無理やりに日本に連れていったという『強制 連行』イメージは明らかに虚像とごわぎるを得ない」(p 15-16)

https://docs.google.com/document/d/e/2PACX-1vR3eYOGCJpO7si5a60WMYMGk_Ym4qO6C1qJmgEEhm7reSmATEgD1Cf0cU48iJwxmwWytjzsPWo2Q2VE/pub



  • 2004.6鄭大均テイ タイキン『在日・強制連行の神話』

 

  •   KK『東アジア反日トライアングル』古田博司はこれに依拠している

   「戦時中 労務動員で日本に来た者は戦後ほとんど帰還しているというこ

   とを実証した。したがって強制連行は無かったのである」p114

  私の反証)  『朝鮮人強制連行の記録』パク・キョンシクには

  「一九四五年八月一五日・・・・・朝鮮人労働者は懐しい故国に向って先を

   争って帰国した。・・・・こうして八月一五日から一一月三○日までに自

   発的、集団的帰国者五二万五、○○○名を数えた。」(p98)

   と書かれている。 大多数が帰国したのであり、この事は金賛汀の『証言

   朝鮮人強制連行』(1975)でも、

   「進駐米軍も、朝鮮人強制連行者を帰国させる以外にこの混乱を収拾す

   る方法がないことを認め、彼らの帰国が再開された。・・・強制連行者の多く  は、この時期に

   帰国した。」(p121~122)と書かれている



  • 2005-5 黄文雄 こうぶんゆう 『韓国は日本人がつくった』で取り入れているが、1997年の『捏造された日本史』には書いていない。

「強制連行という歴史の捏造」p141「あまりに酷いでっちあげ」

デマ「日韓基本条約が締結されたこの65年当時、強制連行のみならず慰安婦についても話題になっていない」p142

(昭和40年10月28日の衆議院の横路節雄質疑で椎名悦三郎は戦時中、役人をしていた椎名は、九州の炭坑を回って歩いたという。そして「その当時、たくさんの韓国の青年が強制労働をですね。それに狩り出されて、そして炭坑に配置された、・・・・・」

 

「強制連行者は・・過酷な労働を強いられた。そこでは慢性的な食料不足で、餓死者の死肉まで争ってむさぼり食った、と言う話は日本の雑誌などでよく見る」p142

 

「自ら希望して日本列島に殺到したのだ」p144

「1942年から官斡旋がはじまった。これは強制ではなく斡旋に応じたければいいし、転職も自由だった」p147

いくら規制しても朝鮮人はみずから希望して日本列島に殺到したというのが歴史の真実だ」p147

 

「左翼は・・・強制連行や従軍慰安婦などを捏造して反日・反政府活動の材料として在日を徹底的に利用したんだ」

 

オビの宣伝文「反日マンガとは偏った歴史観に基づいた反日的なイデオロギーがにじみ出ているマンガ。グルメ漫画の中に突然出てくる「日本人は朝鮮人を強制連行したんだ」といったセリフが、知らず知らずのうちにあなたの心を蝕んでいく。」

中宮祟による雁屋哲批判

「今では完全に否定されている筈の強制連行神話が堂々と吹聴されている」

 

「強制連行どころか密航までして日本を目指した朝鮮人

「あまりの渡航希望者の多さに取り締まりを緩和」

 

2014年、この年各地で「強制連行」追悼碑や史跡説明を撤去しようとする動きが活発となる

 

 

 

  • 2017.3 李宇衍イ・ウヨン『戦時期日本へ労務動員された朝鮮人鉱夫(石炭、金属)の賃金』エネルギー史研究 / 九州大学記録資料館産業経済資料部門 編 (32):2017.3

 

   2017-4-11産経新聞【歴史戦・第17部新たな嘘(上)】[韓国で染みついた

   「奴隷」イメージ 背景 に複雑な賃金 計算法 「『意図的な民族差別』

   事実と異なる」韓国人研究者が結論]   https://www.sankei.com/politics/news/170411/plt1704110003-n6.html

  「なぜ当時の炭鉱では「奴隷のように朝鮮半島労働者が働かされていた」とする

   イメージが作られたのか。」

  「「朴慶植の研究を本格的に否定した画期的な論文だ」と、李の論文に目を

  通した九州大教授、三輪宗喝采を送る。三輪は朴らのように強制連行を

  主張する研究者に対して、自身を含め、炭鉱労働に詳しい専門家たちが

  「触らぬ神にたたりなし」とばかりに表だって反論を控えていた過去に負い目を

  感じていた。三輪も多くの統計を調べたが「民族差別的な賃金体系などな

  かった」と語る。ただ、三輪は李の論文をもって、労務動員をめぐる韓国

  の“日本批判”は収まらないとして、次のように語る。 「韓国は学界でさえ、道

  義的なイデオロギーに支配されがち。李の研究がまっとうでも、自分たちの主

  張と違えば、資料そのものが間違っていると言いかねない。歴史を操る行

  為は、まさに当時を生きた人を愚弄する行為だ

  

  指摘)産経は賃金をもらっていた事をもって「奴隷ではない」と言いたいようだが、奴隷の中には賃金を得ていた者もいた。またオーストラリア連邦最高裁判所の2008-8-28の性奴隷判決でも女性たちは報酬を得ていた。「5人のタイ女性たちが」「債務返済のためにメルボルン郊外で、週6日4ないし6か月間に各自900人にのぼる顧客相手に性行為を強いられていた事件。彼女たちは売春宿に施錠されて閉じ込められていたわけではなく、(阿部浩己(神奈川大学大学院法務研究科教授の意見書2014-11-5/吉見裁判)

 

「歴 史 を 忘 れ た 民 族」 「(釜山の)国 立 日 帝 強 制 動 員 歴 史 館 」「日本によつて行われた強制動員 の惨状を国民に広く知らしめ、正し い歴史意識を鼓舞し、人権と世界平 和に対する国民教育の場を提供する ことを目的に設立」「さすが儒教大国である。正「しい歴 史認識を鼓舞」「人権と世界平和」「平 和と人権の歴史」という大義名分をう たう文句が踊っている。」「労務動員」では「日本の国家権力が 法令を根拠に公権力を動員し、政策 的・計画的・組織的・集団的・暴力 的に植民地民族を様々な産業現場に 労務者として動員した行為」を指すと して 、 「7 、554 、764人(重複 動員も含む)以上の朝鮮人を動員しま した景写真2)と´記述されている」「炭鉱」の下には「切羽の 過酷な労働」「炭鉱から無事に帰ってき た人は数少ない」「日本軍慰安所」の 下には「埋もれてしまった事実クただ 心からの謝罪の言葉を聞きたいだけ なのに」と書かれ 、 「時代の鏡」の下 には「強制動員―癒えない痛みの記憶 歴″史を忘れた民族に未来はない」と付記されている 。

二点だけお灸をすえさせ ていただく 。 「歴史をごまかす民族に 未来はない」と私は言いたいからだ 。 まず 、「炭鉱から無事戻ってきた人は数少ない」とあるが 、 明らかな嘘」

「石炭統制会 の作成した統計資料(茨城県立歴史館 所蔵)では 、 労務者の日本人と朝鮮人 労働者の死亡率は殆ど差がない 。」「この事実は 、 産経新聞(2016年4月3日)が報じている 。 記事に よれば 、 この写真は 、 旭川新聞の大 正一五年五月九日の道路工事現場の 日本人労働者であると説明されている(写真5) 。 思い込みとは恐ろしい ことである 。」

私 は 九 州 大 学 に 赴 任 し た 平 成 十 六 年 以 降 、 資 料 に あ た っ て き た が 、 内 地 人 と 半 島 居 住 者 の 間 に 賃 金 の 区 別 が あ っ た と 示 す 資 料 は 見 当 た ら な い

ビルマ慰安婦従業員日記』を李栄薫教授が発見し 、韓国で刊行され た 。ネットで日本語仮訳を読むこと も可能だが 、 安乗直・ソウル大学名 誉教授の解説には違和感を覚えて 、その旨を本来であれば解説を書くべきであった李栄薫にメールで伝えたことがある

元朝日新聞記者で朝鮮語に堪能であった田中明は『朝鮮断想1984草風館)の「ソウルに触発された断想」の中で 、 韓国が「現在のように日本原産の武器 お(おむね左翼系の)をもって日本を 攻撃している限り・・」

田中明の『物語韓国人』2001(文春新書)の「おわりに」も紹介しよう 。 「それに『われわれはお前たちからこんなにひどい目に遭ったんだぞ』と日 本に″やられたことを得々と(そう 私には見える)語って 、日本を謝らせようとする行動のスタイルは 、 どう見ても他者の尊敬を得る道ではない 。とくに慰安婦問題はひどかった。従軍慰安婦が政府の強制動員によるも のではないのは 、当時の空気を少し でも吸った人なら 、誰でも知ってい ることであるのだが 、 反日日本人が 編み出したあまたな画策の一つだったこの問題に 、 韓国側がすぐ乗ったうえ 、 かつて慰安婦だった老女まで 動員して運動を″盛り上げ・・・」

 

「韓国で戦時中の朝鮮人徴用工問題が無報酬の強制連行・強制労働であるかのようにねじ曲げられ」

 

 「2つとも、当時の朝鮮人徴用工の姿をよく示す資料なので少し詳しく引用したい。」

  •  『 歴 史 認 識 問 題 研 究 』 第 6 号 (2020年3月19日)では 特集1『反日種族主義』の徹底解剖

 実証研究『反日種族主義』の衝撃       渡辺利夫

 大韓民国の亡国の危機を告発する憂国の書     西岡力

 「朝鮮人強制連行」説に対する、韓国人研究者からの初の反論  勝岡寛次

 

 

 

 

p83~①『在日朝鮮人関係資料集成第5巻』p50-53「逃亡セル集団移入半島徴用工員の諸行動に関する件』の「金山正損の手記」②『朝鮮人徴用工の手記』鄭 忠海(チョンチュンヘ)(1990初版)

 

 

https://docs.google.com/document/d/e/2PACX-1vSJMlw3nG3r9Oe_dZTWiHSUyoZQ4NO7RNzgG8kncFfFjLqIV11glXtLuQvP5EN1CKzjpilIHxr1U4U1/pub



  • 2019.4西岡力『でっちあげの徴用工問題』

https://docs.google.com/document/d/e/2PACX-1vT8MrNRHBljd2y9GlJZh8ELLXgqgK_vID4T8Ihg1JxAHZ2K3HERMrHiiLKi6_RbCLsO2IH_cFQrWRis/pub



 

「慰安婦は戦地の公娼」論を読み解く

慰安婦は戦地の公娼」論を読み解く

(「ただの売春婦」「金儲け目的」論を含む)

 

最初にこれを唱えたのは、今日判明している限りでは、1992(平成4)年ー2月24日の神社新報に掲載された中村粲氏の「勇気ある対応を政府に望む」である。

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同時期、元憲兵たちの機関誌『憲友』(1992年春号)の編集後記は「金儲け目的」論を主張している。

 

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神社新報』は、神社本庁の機関紙であり、神社本庁と憲友会はどちらも、靖国神社崇敬奉賛会の会員である。

また神社本庁(及び神政連)は右翼組織・日本会議の中心的存在である。


さらに神社本庁と「表裏一体」の関係にある神道政治連盟は、後に「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書採択運動をしていた団体である。



1996年頃には、やはり靖国神社を崇敬する政治家たちによって「ただの公娼」「商行為」「お金もらってる」などの発言がなされた。

(〔歴史検討委員会〕は靖国三協議会が寄り集まってつくったが、板垣正は事務局長、奥野誠亮は顧問である)


永野 茂門法相 1994-5(元陸軍軍人)

永野と靖国神社 http://www.eireinikotaerukai.com/pdf/tayori/Eireitayori_No32.pdf

慰安婦は公娼」

 

奥野誠亮元法相 1996-6

神道政治連盟国会議員懇談会所属)(みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会初代会長)

「当時は公娼制度が存在し、商行為として行われた」

 

 ③

板垣正元参議院議員 1996-6

日本会議代表委員)(神道政治連盟国会議員懇談会所属)

 

「当時は貧しさの中で公娼制度があり、恵まれない女性がいた。」

 

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(産経はもちろん、奥野に同意である)






1990年代のこの時期には、読売新聞は政治家のこれらの主張を肯定的報道はしていない。

 

 

 

秦郁彦は1999年の著作『慰安婦と戦場の性』で「公娼制度の戦地版として位置づけるのが適切かと思われる」と書いている。

 

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その後秦郁彦氏を経由し、2007年には読売新聞もこうした主張を吸収している。

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これが「慰安婦は戦地の公娼」論のおおまかな経緯である

 

つまり、最初は神社界、靖国神社崇敬者たちからはじまった主張が、靖国崇敬者日本会議産経新聞を含む)の間に充満し、秦郁彦や読売新聞がこれを取り入れ、さらに今日では韓国人であるイ・ヨンフン氏たちも影響を受けたのである。

 

 

遊客が民間人から軍人に、監督官が警察署長から軍部隊長に変わった以外に、店主と女性たちとの関係を含めて、業所運営の細部にいたるまで、大差ありませんでした。

そのため慰安婦制は軍によって編成された公娼制である、という既存の研究成果に同意したのです。(『反日種族主義』p261)

 

 

 日本の右派の論説の多くは、「証明する作業」を怠っているが、この「慰安婦は戦地の公娼」論も同様である。

もし「慰安婦は戦地の公娼である」との意見を証明したいのであれば、公娼制度の法的根拠である娼妓取締規則(日本内地、朝鮮、台湾のそれぞれで多少異なる形で制定・施行された)が、いかに慰安婦制度に適用あるいは援用されたか?という疑問に対して、「このように適用援用されたのだ」という証明がなされなければならない。ところが、右派論壇全体を見回しても、そのような証明を行った論文は存在しない。

ただ、言い張っただけなのである。

イヨンフンは「慰安婦制は軍によって編成された公娼制」と書いているが、「公娼制」と言う言葉を使うなら、娼妓取締規則の適用あるいは援用を証明しなければならない。「〇〇と類似している部分がある」は「〇〇とイコールである」にはならないからだ。

 

 

 

 

読売新聞の主張の問題点についてはここに ↓

コラム「『反日種族主義』の歴史認識は日本の右派のうけうりである」 - 『反日種族主義』検証サイト