慰安婦民族比率資料を考察する

 

 

f:id:horikekun:20200629072007j:plain

 伊藤桂一『大陸をさまよう慰安婦たち』 「新評」1971-08 掲載

 「日本人の慰安婦は数の上ではもっとも少なかった」「最大の貢献をしてくれたのは量質ともに朝鮮人慰安婦であるだろう」

 伊藤桂一=自身も徴兵され中国で慰安婦の世話係のようなことをしていたが、戦後作家として戦友会に出入りし、広範囲に元将兵の話を聞いた)

 

『戦場と記者 - 日華事変、太平洋戦争従軍記』冬樹社1967

小俣行男(読売新聞・従軍記者)

p172

応山

武漢作戦終了後、第三師団が応山に駐屯していたため、『特殊慰安所』がつくられた。家は十数軒、ここには珍しく日本の若い女がたくさんいた。」

 

 

『歴戦1万5000キロ』中公文庫2002(単行本、中央公論新社1999)藤崎武男

昭和16年7月に、陸軍士官学校を第55期生として卒業。歩兵第227連隊に赴任、野戦小隊

長、初年兵教官、連隊旗手、第一中隊長

p27

中国

「大隊本部以上の上級司令部のある駐屯地には、たいていピー屋があって営業していた。だから、私の中隊のような陣地勤務の将兵が《遊ぶ》となると、これら本部の所在地まで出張しなければならなかった。慰安婦の多くが朝鮮半島出身者で、日本人はよほど治安のいい地区でないといなかった。」

 

   *中国・信陽にも朝鮮人慰安婦がいたことを書いている

 

 

『戦争奴隷』 1967津山章作

p231

湖北

「戦地の娼婦は9割以上が半島の女であった。あとわずかが内地の女、さらに少ないのが中国人だった。」 

 

 

憲兵下士官新人物往来社1974

鈴木卓四郎

昭和15年4月、憲兵上等兵を拝命。南支派遣軍に転属

p59~p61

中国・南支軍占領地

「此の1500人前後の7割以上は半島人(朝鮮人)婦女子であったことは驚くより外はない」

 

 

『 娘に語る祖国『満州駅伝』従軍慰安婦編』

つかこうへい

関東軍将校(砲兵連隊)による満州の話 

 

満州

「私の知っている範囲では、やっぱり朝鮮半島出身が圧倒的に多いですよ。」

 

 

『戦旅の手帳』

伊藤桂一 1986 直木賞作家 『落日の戦場』『静かなノモンハン』などの作品あり

 蕪湖

「なんとなしに朝鮮人慰安婦たちの相談役みたいな仕事?をしていて、・・・・・20人ほどい る女の中で気質の悪いのはいなかった。」

 

 

 

 

華北戦記』 朝日文庫1997

桑島節郎 

1942年2月より満4年間にわたり一兵士として中国。華北戦線

p247~p250

中国・華北

「兵隊の性欲処理のために部隊によっては慰安婦をかかえ、慰安所を設け、性に飢えた兵隊たちの欲望を満たしていた。慰安婦朝鮮人と中国人が多かった。」

 

 

『Gパン主計ルソン戦記』 文芸春秋1986

金井英一郎

昭和18年入営し、昭和19年6月、東京陸軍経理学校を卒業、満州孫呉

 

昭和19年6月ころの満州孫呉

「50名の慰安婦が・・・慰安婦はすべて若い朝鮮女性である。」

 

 

『1932日間の軍隊』東京図書出版会2005。

上斗米正雄 昭和15年、現役兵として関東軍に入隊。その後、支那派遣軍に転属し、敗戦まで中国各地を転戦。

 p123~p125

昭和17年4月、満州・綏遠

「ピー(慰安婦)は殆ど朝鮮人であった。」

 

 

赤紙兵隊記』1987 いまいげんじ 

 他の著作 『シベリヤの歌』 

p78 満洲 間島


興亜館

第一第2

「いわいる「ピー」と呼ばれる女性達はほとんどが朝鮮娘であった。」

 

 

聞き書き ある憲兵の記録』  朝日文庫、1991

朝日新聞山形支局

土屋は、昭和6年、関東軍独立守備隊に入隊し、9年から敗戦まで関東軍憲兵として勤務

p143 満州チチハル

 

チチハル市には、軍専属の慰安所が3か所あった。2か所は朝鮮人女性で、残りが日本人女性だった」

 

 

『わが青春の海軍生活ー素顔の帝国海軍・別巻』 海友堂1981。

 瀬間喬 

昭和6年、海軍経理学校卒業、以後海軍勤務。海軍主計中佐

 

昭和13年ころ

中国・南京

陸軍将校の慰安所

 

慰安婦は全部朝鮮人であった」

 

 

『ああ応召兵』 講談社1978

故吉田慎一の6年間の陣中日記を著者がまとめたもの

津村敏行

吉田は、昭和16年10月、陸軍に召集され、ジャワ、ラバウル、フィリピン、南支、ビルマ仏印などを敗戦まで転戦。

 

p127

昭和18年、広東市

 「慰安所も大々的に開かれていて、朝鮮の女性が大部分であった。」

 

 

『南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて』社会評論社2002

松岡環編

南京戦に従軍した元兵士102人の証言

 

p276

中国

(第16師団歩兵第33連隊第3大隊兵士の証言)

慰安婦慰安婦いうて、30人くらいの女をたいがいの部隊では連れて歩いておった。ほとんど朝鮮人の女じゃった。」

 

 

 

南京事件三光作戦大月書店1999

笠原十九司

昭和15年、現役召集を受けた浅見昇一氏の証言)

p177

中国・盂県県城

朝鮮人慰安婦がいる慰安所が1軒あり、浅見さんも一度行ったことがある」

 

 

『モリトシの兵隊物語』青村出版社1988

森利

昭和16年現役兵として野砲兵第1連隊に入隊し、渡満。昭和19年、鉄道13連隊に転属し、中国各地を転戦

p311

中国 

「戦時中、日本軍が駐屯している所には例外なく慰安所があった。そして、大部分の慰安婦朝鮮人女性である」

 

 

『変転せる我が人生』日本文化連合会1973

藤村謙

昭和12年7月、熊本野砲兵第六連隊長となり、第六師団内にあって、北支、中支に出征、南京、漢口などの会戦に参加

昭和12年12月以降

中国・蕪湖。

「日本女性と朝鮮人女性とが来たが、後者の方が一般に評判が良いので逐次之に代えることにした。」

 

 

『51年目のメッセージ』旭川冨貴堂1996年

戦後50年記念「私の戦中・戦後」公募手記集編集委員会

p82

中国・輝県

「それらの棟に『お姐さん』が朝鮮女性が8割、中国女性1割、日本女性0.5、フィリッピン女性0.5の割合であった。」

 

 

『日本一歩いた「冬」兵団ー第37師団・一軍医の大陸転戦記』葦書房1993

江頭義信

 

「冬」兵団ー第37師団、第3大隊

河津 固鎮 稷山

「我が第3大隊地区では、河津と固鎮と稷山に慰安所があった。女性は、朝鮮半島出身の乙女達が多かった。運城には日本女性もいたが、ドサ廻りの我々には縁がなかった」

 

 



『兵隊画集』番町書房1972

富田晃弘

昭和19年10月、満州要員として、第12師団の西部第46部隊に入隊し、満州に派遣される。昭和20年1月、台湾に移動

p37

昭和19年、満州

源氏名は『椿』とか『千鳥』とか『深雪』などと古風であったが朝鮮人がほとんどであった。初年兵用のピイ屋には満人の婦(おんな)がいた。

国境の町三ブン口(東寧)は昭和13年ごろ大勢の苦力によって開発された」「町にピイ屋が15軒ほどあった。日本人の婦(おんな)がいた。ピイが足りずに下士官の喧嘩が絶えなかった」

 

 

 

 

『シッタン河脱出作戦』早川書房1975

 ルイス・アレン

p144

昭和20年5月

ビルマ

「おもに朝鮮人からなるこの慰安婦の制度は、東アジア全域を通じて日本軍についてまわった特徴的なものであった。」

 

 

 

 

 

  

『なは・女のあしあと―那覇女性史(近代編)』ドメス出版、1998年発行

那覇市総務部女性室那覇女性史編集委員会

(P458)

「朝鮮の女性に比べれば人数は多くはないけれど、台湾の女性たちもまた沖縄で、日本軍の慰安婦にされていた」

 

 

 

ビルマ敗戦記』図書出版社、1982年

浜田芳久

昭和17年2月、入隊し、18年3月、満州・東安市の第17野戦貨物廠に主計の見習士官として転属され、19年5月、野戦重砲兵第5連隊に転属し、大隊付主計少尉としてビルマに派遣される

p32~33

満州

大陸の奥地や南海の島々

満州では部隊がいるところには必ずといっていいほど慰安所がつくってあり、たいてい朝鮮人慰安婦がいた」「朝鮮人慰安婦はタイ、ビルマにもきていた。

日本軍将兵と軍属に性のサービスを売るこの施設は、フルネームでは『皇軍特殊慰安所』と呼ばれ、軍管理のもとに、これを専門に営業する特殊の商人により経営されていた。性の商人の営業の足は遠く大陸の奥地や南海の島々にまで伸び、慰安婦のほとんどは朝鮮人であった」

満州・東安。

「満鉄が経営するヤマトホテルがあり、映画館が三つ、飲食店がいくつもあって、皇軍特殊慰安所が軒を並べている区画もあった。軍人軍属以外の者の立ち入りを禁じているこの軍管理の特殊施設では、女のほとんどは朝鮮人で、将兵たちは朝鮮ピイと呼んでいた。」

 

 

 

 

  

『泣くのはあした―従軍看護婦、95歳の歩跡』冨山房インターナショナル、2015年

大澤重人著

p82~83
昭和17年3月、満州・林口の陸軍病院に派遣された陸軍看護婦への聞き書き

「(彼女が後に行った)朝鮮国境の延吉にも、部隊とは別の街中に軍人慰安所があった。『慰安婦はほとんどが朝鮮の人じゃったかねえ。日本人の慰安婦もいて、将校や偉い人の相手と聞きました」

 

 

 

 

 

 

『黄塵赤塵―第37師団戦陣こぼれ話』第37師団戦記出版会、1986年発行

田豊

(p236~238)
14年6月、中国・曹張鎮

「そのころ、曹張鎮駐屯地には、女性は、日本人が5~6名・半島系が20~30名ほどいた」「なお運城の彼女たちは、半島系が約300名、日本系が50~60名ぐらい。カフェーは、時雨・木蘭・千鳥・大陸・大国など、10軒ほどであり、戦友諸兄にも、思い出は尽きないものと思われる」

 

  

『支駐歩三、第十中隊の歩み』支駐歩三、第十中隊会、1985年。昭和13年、北京で編成された支那駐屯歩兵第三連隊の第10中隊の戦史と回顧録

支駐歩三、第十中隊会編

p126

中国・揚店子鎮

「一個大隊以上の兵力が駐屯している所には、必ず売春婦が付随している。ほとんどが朝鮮人で、主人公は女が多い」

 

 

 

 

  

『兵は死ね―狂気のビルマ戦線』鵬和出版、1983年

大江一郎

昭和18年9月、臨時召集され、ビルマ方面軍第31師団工兵第31聯隊に補充要員として入隊。インパール作戦などに参加

p219

ビルマ・ケマピュー

「だいいち、この時点で、看護婦と慰安婦を日本軍が同等に扱うはずはないだろう。特に慰安婦はほとんどが朝鮮出身の女性である。」

 

 

  

優曇華の花―実録カクさんの戦争体験』文芸社、2002年

明珍格

p54

満州

慰安婦朝鮮人ばかりで、日本人の女はいなかったのかと聞くと、全部朝鮮人だったという。」

 

 

 

 

  

『近衛第二師団第1野戦病院出征記録』私家版、1980年発行。同書は、手記で綴る同病院の記録。

ルマサキ会編

p48

昭和15年、中国・南寧

「市内の商人は殆ど内地から金儲けに来た人達で店舗は約30軒、主に飲食店であった。その他、3ヶ師団の兵に慰安所が20軒位。慰安婦は朝鮮婦人、支那婦人が多く、日本婦人は僅かであった。」

 



  

『死地幾山河―満洲・虎林陸軍病院の記録』私家版、1972年

阪田泰正

昭和15年、短期陸軍候補生として入隊、陸軍軍医大

 

p14

昭和16年4月、満州・虎林

「娯楽機関として、映画館のほかに、軍の慰安所があり、朝鮮人慰安婦が20名ばかりいた。」

 

 

 

 

秦郁彦が 『慰安婦と戦場の性』 で根拠に挙げている著作は、ごく少数である。

 

f:id:horikekun:20200330045615j:plain

慰安婦と戦場の性』p407

 

●秦が「確度の比較的高い」というp407の<表12-14>には、下津勇や児島幸造、大平文夫、二宮義郎などが挙げられているが、このうち著作があるのは、下津勇ぐらいであり、後は何の著作または証言を根拠にしているのか?まったく分からない。児島幸造、大平文夫、二宮義郎は誰が、いつ、どのように採談したのか?まずそこから秦は始めるべきだ。

 

●一番下にある『外務省本邦人職業別人口表』の「全中国」は、p89<表3-8>の15歳から39歳までの「旅館、料理、貸席及び芸妓業など」の分類である。

 ●p86-p87の<表3-4>で民族比率が分かるのは、43年の南京、38年の揚州、43年の蕪湖、39年の久江、39年の南昌、43年の漢口、<表3-5>(酌婦数)で民族比率が分かるのは、38年の広東、43年の海口である。

この内、日本人が最も多いのは、43年の南京、39年の久江しかない。

 

●上に掲載した<表12-14>で、海口(海南島の都市)の日本人の人数は、<表3-5>からの引用だが、何ら断りなく、芸妓と女給を加えている。もちろん日本の芸妓はしばしば売春もしたし、女給も同様だが、かならず売春したわけではなく、秦の定義における「軍専用」慰安所従業婦であるとも言えない。日中戦争がはじまった直後の1937年8月31日から2年8か月の間に、中国に渡航した民間人は59万人に達した。そこで1940年5月7日、政府は、当分の間支那渡航を禁じる閣議決定をしている。渡航した人々の中には軍に随行する企業もあれば、一旗あげようという人々もいて、またそれを目当てにする飲食店、水商売も進出した。こうして中国には大量の日本人が進出していたので、『外務省本邦人職業別人口表』の「旅館、料理、貸席及び芸妓業など」の分類から、慰安婦の数を割り出すことは非常に困難である。朝鮮人女性の場合、戦地、占領地にいた水商売の女性はほとんどが軍慰安婦だろうが、日本人女性の場合「酌婦」であっても必ず軍相手であったとは言えないし、ましてや統計に表れる芸者や女給を「軍慰安婦」に確定することができるような資料は存在していない。

しかし、秦はこれをかなりいい加減な処理によって根拠資料としている。

<表3-5>から海口は掲載しているのに、なぜ広東は掲載していないのかもわからない。

 

結論

民族別「慰安婦」比率を確定するような公文の資料は存在していない。しかし、兵士や従軍記者には、「朝鮮人が多かった」という証言が多い。

 

 

 

『反日種族主義』批判ー「反日」という言葉の調査

反日」という言葉は、1990年ころから多く使われるようになった

 

   1、「反日」という言葉の使用状況

 

著作物

国会図書館公共図書館においてある題名に「反日」と書いてある著作物(雑誌は入っていない)で、おおよそ「1980 ‐1989 」が21冊、「1990 ー1999 」が27冊、「2000ー 2009 反日」98冊、「2010ー 2019 反日」が210冊となっており、ここ数年間で急激に増加している。

 

*『反日国家・日本 : 国辱一掃のホ−ムラン―重大裁判の進行』 名越二荒之助 山手書房 1984 が草分け的存在 (名越二荒之助は後でもう一度登場)

雑誌に掲載された論文では『韓国の民族主義反日』田中 明 「海外事情」 1982-04等   

 

新聞雑誌記事横断検索)産経新聞反日」ワード使用調査表

 

 

韓国+反日

反日

自虐史観

黒田勝弘

黒田勝弘反日

反日日本人

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

1993

179

29

63

3

363

12

0

 

1994

158

30

71

4

379

10

0

 

1995

120

58

103

11

400

23

0

 

1996

345

99

228

46

352

30

4

 

1997

432

85

196

49

328

29

0

 

1998

226

66

166

41

296

25

1

 

 

 ---------- 

2015

1309

383

606

35

155

62

0

 

2016

967

193

293

33

144

35

0

 

2017

1458

368

475

32

148

31

0

 

2018

818

207

300

15

159

29

5

 

2019

669

444

537

25

141

68

0

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1月1日~12月31日

*誤差あり

*全て「タイトル+記事内」

 *産経新聞社が出している月刊誌『正論』はおおよそ210記事が題名に「反日」をつけている(調査は2019-12)。

*その他、月刊誌『諸君』『WILL』『サンサーラ』『サピオ』『hanada』『文芸春秋』等で「反日」は大量に使われているがまだ調査していない。

慰安婦像と「反日」を結びつけたのは、ごく最近の話で、雑誌に掲げられる論文で題名の中に「反日」と「慰安婦像」が並ぶのは2012.8.22・29号のサピオから始まる。

 

産経新聞は「反日」という言葉をもっとも頻繁に使う全国紙だが、1993年から「反日」の使用件数が徐々に増えている。図書も同様であり、1980年~1989年の21冊から、2010年~2019年の210冊まで、「反日」という言葉の題名での使用頻度が急激に増加している。

こうして日本は「反日」という言葉に覆われて行ったのである。

 

            2、右派論壇「反日」使用例

a)「反日」マスター西岡力

 

 

f:id:horikekun:20200325025531p:plain

 

f:id:horikekun:20200325025619p:plain


『正論』2019-10「病根は文在寅」 「反日の本質を暴く」より

 

題名から「反日」が使われ、わずか8ページの論文に様々な言葉と結びついた「反日」が40ケ以上もある。

反日デモ」「反日のトーン」「親北反日路線」「反日の本質」「反日運動」「アンチ反日」「反共反日」「功利的反日」「反日スローガン」「反日歴史糾弾外交」「反日パフォーマンス」・・・など様々な形容をした「反日」が登場。

『正論』誌は「反日」という言葉の宝庫だが、その中でももっとも多様に「反日」を使うので、西岡には反日マスター」の称号を与えよう。

ちなみに「反日日本人」という言葉を造ったのも西岡であり、『よくわかる慰安婦問題』で自慢げに書いている。イタイ話だが。

 

 

 

f:id:horikekun:20200325025754p:plain

青年会議所で、西岡の造語「反日日本人」への攻撃を語る杉田水脈

 

 

ネトウヨの場合

f:id:horikekun:20200325030010p:plain

反日日本人」とレッテルつけた相手への容赦ない罵声が続く。

 

しかし福島瑞穂が何を捏造したというのか、具体的な事はまるで分からない。

 

 

 

 

b) 「反日」クイーン 呉善花

反日」の使用量ではこの人も負けていない。

 

f:id:horikekun:20200325030155p:plain


(『なぜ反日韓国に未来はないのか』2013 呉善花 目次 )

 

見ていただければ分かる通りもう「反日」だらけ。猫の毛のように「反日」が生えている。「反日クイーン」の称号を与えよう。

昔「神社は気味が悪い」と述べて渡部昇一を呆れさせ、そんなこっちゃ日本の事は書けんぞ、と言われて調べ『攘夷の韓国 開国の日本』を書いたという。(渡部昇一『中国・韓国人に教えてあげたい本当の歴史』より)

過剰に「反日」を攻撃するのは、右派に影響を受けた元外国人の特徴である。転向者は、元の集団を過剰に攻撃するものだからだ。呉善花にとって自分が昔属していた集団=[韓国人]は攻撃すべき対象なのだろう。自分で「日本信徒になった」と宣うコレまたイタイ人である。(『私はいかにして「日本信徒」となったか』)

 

呉善花「反日」題名使用の著作物一覧

 

そしてこの呉善花は「反日民族主義」という言葉の(おそらく)発明者である。

 

 

(『正論』2002-2の呉善花「日韓関係を歪めた「きれいごと主義」」が初出、同年1月6日の産経新聞にはこの呉善花論文を紹介する記事が載り、これが産経新聞における「反日民族主義」という言葉の初出である。以来産経では約20記事で「反日民族主義」という言葉を使っている)(1980年代、田中明に『韓国の民族主義反日』という記事はある)


*「反日民族主義」という言葉で注目すべきなのは、2017年11月17日の産経ニュースで久保田るり子

「・・韓国 文政権の反日民族主義が見えてきた」と書いている事だ。

久保田は『反日種族主義』の序文に登場している。

またイ・ウヨンは「反日民族主義に反対する会」の代表であり、イ・ヨンフンの説明では「韓国の民族主義は、種族主義の特質を強く帯びます」(『反日種族主義』p212)という。

 

反日種族主義」という言葉は、「反日民族主義」という言葉の一変形であり、シャーマニズムを散りばめただけの代物である。

 

しかし「反日民族主義」の発明者呉善花は、「(韓国の)反日民族主義の根は・・・中華主義的、儒教的な思想なわけです」(井沢元彦, 呉善花 著『やっかいな隣人韓国の正体 : なぜ「反日」なのに、日本に憧れるのか』p285 )「シャーマニズム信仰は日本のそれに近い」(同p189)

と述べている。韓国の文化の根源をシャーマニズムをおいて、それを「反日」の源としているイ・ヨンフンとは大きく違う。呉善花理論では日本人も「反日種族主義」になりそうだが、彼らが論争して決着をつけることはなさそうだ。

 

呉善花は、1997年のシンポジウムで「小さいころから、従軍慰安婦という言葉を聞いたことない。日本軍が強制的に送ったと聞いたことがない。それがなぜ最近になって言われはじめるのか、それを考えなければいけない」と述べている(『私はいかにして「日本信徒」になったか』p168-169)。


これは

 

f:id:horikekun:20200325030807p:plain

反日種族主義」動画【朱益鐘 チュ・イクジョン 解放後の40余年間、日本軍慰安婦問題はなかった】

というチュ・イクジョン の発想の源だろう。

 

 

C)反日エストロ 黒田勝弘

 

産経新聞では、1993年ころからすでに「韓国は反日」型記事を書いている。黒田は「韓国は反日」式ネトウヨ妄想を作り出した張本人の一人。後でその黒田の著作を使って「反日」という言葉の意味を追求してみようと思う。

 

著作は

『韓国・反日症候群』 黒田勝弘亜紀書房 1995

『韓国反日感情の正体』  黒田勝弘 [著] 角川学芸出版 2013

 

言わずと知れた産経新聞の韓国専門の記者だが、『反日種族主義』関連では、他誌に登場して、宣伝に一役買っている。おそらく産経新聞の方針として、『反日種族主義』を宣伝しているのだろう。

 

A『「反日種族主義」と私は闘う : 慰安婦問題を放置すれば大韓民国は崩壊する (日韓相克 : 終わりなき"歴史戦"の正体)』李 栄薫,黒田 勝弘

掲載誌 文芸春秋 97(11) 2019-11 p.108-114

 

B『側近・曺国(チョグク)追放で保守陣営に勢い 文在寅反日」で悪あがきするも限界へ : 慰安婦や徴用工で日本の立場を支持した本が韓国でベストセラーになって』

黒田 勝弘 掲載誌 Themis / テーミス [編] 28(11) (通号 325) 2019-11 p.50-51

 

C『日韓断絶の元凶 ついに韓国の歴史家が決起した! 「反日種族主義」を追放せよ』

金容三 鄭安基 朱益鍾 黒田 勝弘

掲載誌 文芸春秋 97(12) 2019-12 p.94-105

 

 

      4、「反日」の意味 「反日」の使われ方


今日のようにレッテル張りと攻撃のための「反日」という言葉の使い方はどのように始まったか?


反日」という言葉は今日の日本ではしばしばレッテルを貼って相手の攻撃を加えるために使われている。

 

その一つの例が植村隆元朝日新聞記者への攻撃だ。植村氏は、金学順さんの証言を紹介したが、「反日記者」とレッテルをつけられ、ありとあらゆる罵詈雑言を浴びせられた。さらにまだ高校生の娘さんの顔写真を公開され脅迫を受けた。

彼らに見えるのは、”憎しみ”である。

 

しかし植村が「反日記者」であるという根拠をちゃんと述べたものはいない。

 

 

 

 

 

      攻撃され続ける植村隆

f:id:horikekun:20200325031133p:plain

 

f:id:horikekun:20200325031303p:plain

 

(植村について「軍慰安婦問題を初めて報道した」などというデマを振りまいたりしながら、「反日記者」と憎々しげに述べるネトウヨたち)

 

彼らが根拠に置きそうなのは、『よくわかる慰安婦問題』などで西岡力が繰り返し書いてきた「特ダネをとるために嘘をついただけでなく義理のお母さんの起こした裁判を有利にするため意図的な嘘を書いた」という無根拠な想像ぐらいしかない。西岡はまた【金学順さんは「貧困のために売られた」と言っているのにその経歴を「植村記者が隠した」】というストーリーにしているが、そもそも金学順さんは『訴状』でも、その他証言をそのまま文字おこしした著作物(『強制連行された朝鮮人慰安婦たち』『金学順さんの証言』『証言従軍慰安婦女子勤労挺身隊』)の全てで、自分で「売られた」などとは述べてはいない。

西岡のいう「金学順さんは貧困のために売られた」という見解自体が、ある種の解釈ないしは想像に過ぎないのである。ところが、この解釈ないしは想像に過ぎない西岡の意見を植村が書かないからと言って、「捏造」であるわけがない。

 

f:id:horikekun:20200325031357p:plain


      『よく分かる慰安婦問題』2007年



このようにして、相手に「反日」というレッテルを貼って攻撃するという使い方を始めたのは、赤報隊である。

 

 

       反日」を攻撃した「赤報隊

戦前には黒龍会などによる朝日新聞へのテロによって朝日が折れた経由がある。戦後も朝日へのテロは盛んに行われており、77年の「防共挺身隊」による襲撃などがなされた。最悪なのは1987年ころ引き起こされた一連のテロ事件であり、5月3日、銃撃により阪神支局の小尻記者が殺害され、他1名が重症を負った。6日後、時事通信に2通の犯行声明が送られ、犯人は「赤報隊」「日本民族独立義勇軍」と名乗った。9月24日には「赤報隊」を名乗る1名が名古屋本社の独身寮に侵入し発砲した。88年3月12日には静岡支局に爆弾が仕掛けられているのが発見された。これも「赤報隊」の名で犯行声明文が通信社に送られている。こうした一連の事件を「赤報隊事件」というが、この犯行声明には19か所で「反日」という言葉が使われている。


右翼団体一水会の元会長・鈴木邦男「「反日」を蔓延させたのは赤報隊だ。事件前は右翼もほとんど使わない言葉だったという意見を述べている。

 

f:id:horikekun:20200325031612p:plain

        (抜粋)2001-10-4の朝日新聞の記事『言論に落とした影』より

 

 


こうして相手を「反日分子」「反日マスコミ」「反日企業」などとレッテルつけながら、暴力、脅迫、罵倒などを行う型が造られてきたのである。反日」という言葉が、戦前の蓑田胸喜らが美濃田達吉攻撃に使った「非国民」「国賊」「アカ(共産主義者)」などと同じように攻撃的な使われ方をしているのが分かる。

 

f:id:horikekun:20200325031808p:plain



2016年5月3日には、【赤報隊の意志を継げ!朝日新聞糾弾デモin帝都】なるものがなされ、赤報隊のテロ行為を「義挙」として称えるとともに、「反日朝日に死を」というのぼりがたてられていた。

 

ネトウヨのこうした主張は、赤報隊と同じ思想から生じている。↓

 

f:id:horikekun:20200327195218p:plain

 

反日」はヘイトデモでしばしば使われている言葉である。ヘイトデモ参加者たちによるたいていの演説、シュプレーコールにもよく見られる。2013.06.15には「 反日マスコミ・反日極左・排害デモin渋谷」が行動保守グループによってなされた。

 

 


          ネットの中の攻撃=脅迫・殺害予告


2020年今日では少なくなったが、ネットの中では前述の植村の娘に対するのような、「反日」への脅迫はしばしばなされてきた。

 

f:id:horikekun:20200327195645p:plain


恐ろしいことに100人以上がRTしている。

反日」と彼らがレッテルつけた相手への憎しみと殺意が見とれる。リツイートしている人物は「安倍総理自民党支持の保守」を名乗り、「日本を反日から取り戻す」という。


同意している人物は「反日のアホ」という。↓

 

 

f:id:horikekun:20200327195759p:plain

 

 

f:id:horikekun:20200327195911p:plain



 

 

反日」という言葉によってレッテルつけた相手に対して、憎悪や殺意を抱く人々に言及してきた。そして時には実際のテロ行為や脅迫行為がなされたのである。

 

 

 

f:id:horikekun:20200327200050p:plain

李信恵さんへの脅迫である

https://blogos.com/article/93912/

 

 

 

売国奴」という言葉も「反日」と同様の使い方をされるが登場頻度は少ない

 

 

f:id:horikekun:20200327200218p:plain

 

 

 

これは昔、有名だったヨーゲン

f:id:horikekun:20200327200343p:plain

 


彼はしばしば「反日」を叫びながら罵倒し、脅迫的な言葉を喚いていた。この後、詐欺事件で逮捕され、本名が知られるようになり、以後ネトウヨからも支持されなくなっていく。しかしこうした「殺してやる」というあからさまな脅迫さえ、7人がリツイートするという2013年当時の怖い風潮であった。

 

 

         「反日」という言葉の意味

 

反日」という言葉の辞書的定義は「日本や日本人に対する反感」である。https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%8F%8D%E6%97%A5/

 

f:id:horikekun:20200327200445p:plain

しかしこの辞書的定義にはあまり意味がない。「反感」なんてありふれているからだ。例えば、どんなに孝行息子であっても、親に反感をもつことはあるだろうし、同様に、どんなに国思いの人・日本が好きな人でも国の政策に反感を持つことはあるだろう。日本人に対する反感はどうだろうか?「個別」ならともかく「総体としての日本人への反感」を示した人間など聞いたこともないのだが、できればそういう人の存在をきちんと示して欲しい。

韓国人に関して言えば、安倍政権の政策や安倍の言動への反発反感を持つ人は多いだろうが、「日本人全てを抹殺したい」とか過激な事はいうまでもなく聞いたこともないし、「日本人全体に反感」を持つ人がもし存在したとしても極めて少数だろう。

日本政府の政策や日本人の民族性の負の側面への言及はもちろん「反日」などではない。そんなことを言い始めれば、いかなる政策批判も難しくなり、民族性を語ることさえ難しいものになってしまう。

 

例えば、『日本とは何か 日本人とは何か』(大宅映子)の中で、右派の論客(「新しい歴史教科書をつくる会」に参加)西部邁は、「旅行者も首相もだらしない国」と容赦なく日本人全体のマナーの悪さを非難しているが、これは「反日」だろうか?

 

ある人は「反日」と呼び、ある人は「反日」とは言わないだろう。「日本や日本人に対する反感」という定義では大雑把すぎて、何を「反感」とするか・・・という基準が存在しない。したがって「反日」かどうか?は全てこの言葉を使う人物たちの主観でしかない。

 

1980年代まで、マスメディアが使う「反日」という言葉は、例えば「東アジア反日武装戦線」という固有名詞であったり、商店のガラスを割ったりしたアジア各国のデモを「反日デモ」と呼んでいた程度であった。しかし「赤報隊」を経て、90年代になると様相が変化していく。戦後補償問題がはじまり、歴史の関する言及が多くなると産経をはじめ右派論壇は歴史論説や言動に対して「反日感情」と結びつけて論じるようになる。

 

やがて、<新しい歴史教科書をつくる会>が造られ、<教科書議連>がつくられ、<日本会議>が造られた1997年ころから、右派論壇に歴史修正主義(歴史改竄主義)が台頭すると彼らが認める大日本帝国の栄光の歴史以外は「日本を貶める」とし、「反日」と呼ぶようになった。

こうして反日」という言葉の意味が拡張され、約75年前に滅んだはずの大日本帝国の悪事を述べること自体が「反日」になったのである。

 


       名越二荒之助から、武藤正敏まで 「街に反日はいない」


1995年、自民党「歴史検討員会」がまとめた『大東亜戦争の総括』の中で、名越二荒之助は「韓国に反日運動が盛り上がり」「独立記念館ですね・・・反日で満たされている」「日本の警察官が韓国人を捉えて拷問している蝋人形です」・・などと述べながら、「・・建前として反日国家となりました。一人一人に会ってみれば決して反日ではないのですが」と述べている。(『大東亜戦争の総括』 p163-p164)


こうした事は、黒田勝弘も書いていて、こういう。

「それでも1970年代から80年代の初めころまでは、街で日本語をしゃべっていて通りがかりの韓国人から険しい眼差しで見られたり、食堂ではついたての向こう側から割りばしが飛んできたりすることがあった。酔っ払いから「ここは韓国だから韓国語をしゃべれ」などとからまれる日本人も多かった。

・・・・(略)・・・・

しかし今や街に反日はない。無いどころか、若者街などではカタカナや平がなの看板がカッコいいと堂々と目の付くところに出ている。日本語を喋っていても誰も振り向いてくれない。日常生活で日本拒否などまったく見当たらないのだ。」(『韓国反日感情の正体』p10)


その黒田勝弘と対談した武藤正敏(元駐対韓民国特命全権大使)も「韓国の国民レベルでは反日感情はほとんどありません」と述べている。(『正論』2015-7 p125)


1990年ころから韓国では「反日感情」は減少し、今やほとんど無くなっている様子が分かる。


これはきちんと理解しておかねばならないことだ。

ちなみに私は、今日まで3度、韓国旅行をしたが、「反日感情」などを感じたことは一度もない。


ところが、名越も黒田、武藤も、「韓国は反日」と繰り返している。

反日感情は無いのに?

相当、意味不明だが。

では何を彼らは「反日」と呼ぶのか?


それは「日本の警察の朝鮮人への拷問」の展示(『大東亜戦争の総括』 p163)であったり、「元慰安婦と支援団体よる日本糾弾」(『韓国反日感情の正体』p60)であったり、「竹島問題」(同前p62)であったり、「2011年8月に出された慰安婦問題をめぐる韓国憲法裁判所の判決」(『正論』2015-7 p115)やら「ソウルの日本大使館前の慰安婦像」(『正論』2015-7 p115)であり、武藤はこれを「行き過ぎた反日」だと述べている。


これは、どういう事かというと要するに、自分たちが信じているものとは違う「歴史記述」を「反日」と述べているだけなのだ。


バカじゃなかろうか?


そりゃあ、産経や『正論』などに書かれている、何ら証明されてもいない妄想のような歴史を信じ込んでいる人にとっては「反日」なのだろうというしかない。

例えば、「南京大虐殺なんて無かった」と信じ込んでいる人が、南京虐殺紀念館に行けば、「こんな嘘ばっかり述べやがって」と反発し、「捏造だ」「反日だ」とわめきたてるかも知れない。

しかし、人数や写真の妥当性はともかく「南京大虐殺は有った」と思っている人間が紀念館に行っても、何のストレスもない。

慰安婦」問題で、「慰安婦はただの売春婦なのに」「高額の報酬があったのに」と思い込んでいる人がいるとすれば、慰安婦の被害などを聞くと、反発し、「捏造だ」「反日だ」とわめきたてるというだけの話である。

独立記念館で【日本の警察の朝鮮人への拷問の展示】を見た時、「これは嘘だ、日本人

は拷問なんてしない」なんて思う人にとってはそれは「反日」なのだろう。しかし、大

日本帝国時代の警察の拷問を理解している人間にとってそれは「反日」による捏造などではないのだ。


今日使われている「反日」という言葉はそういう言葉であって、国家主義者、あるいは国粋主義者によって、都合よく改竄された妄想のような歴史を信じている人達が「不当に貶められている」と見なす対象に対して、攻撃的に使用している言葉なのである。いわば歴史改竄主義者用語と言えるだろう。

そしてその全てが、靖国へと収斂している。

 

 

*『やっかいな隣人 韓国の正体』の「反日なのに日本に憧れる」章p84~87で、独立記念館の【日本の警察の朝鮮人への拷問の展示】について、井沢元彦呉善花は口々に「日本には拷問などない」として否定している。

 

コラム「『反日種族主義』の歴史認識は日本の右派のうけうりである」

現在、日韓関係は非常に冷え込んでいます。その原因を韓国人の反日感情に求めたり、反日により歪曲されているという韓国人の歴史認識の問題に求めているのが、この『反日種族主義』です。

 

韓国の歴史教科書や学説、新聞記事などが全面的に正しいわけではないのは当たりまえです。しかし、私の見たところ、この『反日種族主義』の示す歴史認識の方がはるかに歪んでいると思います。

 

日本の歴史修正主義の流れをいうと1993年ころ、まず細川首相の「侵略戦争発言」などに反発して、「侵略戦争否定論」が唱えられ、それから96,7年ころから慰安婦問題否定論が活発になって行ったのですが、現在、イヨンフンさんたちが唱えていることは、そうした流れの中から生まれた主張の影響を多分に受けている。

歴史修正主義には、「侵略戦争否定」の他に、「南京大虐殺否定」や「慰安婦問題否定」、「強制動員否定」、「沖縄戦集団自決軍命否定」やら、いくつかのテーマがありますが、いずれも日本軍には責任がない、日本国(大日本帝国)には責任がないという主張であり、あの戦争における大日本帝国の問題を問うことは、日本を貶める事であり、自虐史観であり、東京裁判史観であり、反日だ、というわけです。こうした論理は右派論壇からネトウヨに広くみられるものです。

近年の右派における「反日」という言葉は、朝日新聞にテロ事件を引き起こした【赤報隊】からはじまった日本の民族主義国家主義用語です。この手の思想用語を歴史論説の中で使うのが、右派の論文ですが、『反日種族主義』もまったく同じ構造です。

 

            イ・ウヨンさんのネタ元

イ・ヨンフンさんたちは、こうした人達の言説を吸収している。たとえばイ・ウヨンさんで言えば、モラロジー研究所西岡力さんや日本政策研究センターの岡田邦宏さんの影響が強く見られる

韓国の民族主義を批判しながら、日本の民族主義国粋主義)に影響を受けているという不思議な構図になっています。

また日本会議松木国俊さんたちと一緒に行動し擁護されたりしています。

イウヨンさんの場合、「右派の受け売り」というよりも代弁者という感じです。

 

 

        秦郁彦の影響 「慰安婦はどこにでもいた」論

イヨンフンさんの慰安婦論は、秦郁彦さんの影響が強いようです。例えば、妓生を「軍慰安婦」としていますが(『反日種族主義』p235、6)、これは秦郁彦さんが慰安婦と戦場の性』で、やっていたやり方を踏襲しています。秦さんは、紀元前のソロン以前の神殿淫売の記述を「軍隊用慰安婦」としてしたり(同書p145)、フランスの「移動売春宿」Bordel militaire de campagneを「移動慰安所」と翻したりしている。こうして古代から「慰安婦」「慰安所」はたくさんあったのだと言いたい。これにはどういう利点があるかというと言わば責任の分散です。

f:id:horikekun:20200324065450j:plain

 

慰安婦」「慰安所」はどこの国でも昔から有ったのだから、日本だけを責めるのは間違っている・・・という理屈になるわけです。

しかし、妓生を「軍慰安婦」という場合の「軍慰安婦」の定義は何ですかね?学術的な定義のつけかたをお願いします。

 

秦郁彦さんの場合、慰安所の定義は「軍専用」ですけど、神殿での売春やフランスの移動売春宿が「軍専用」であることを彼はまず証明する必要があります。

 

 

        慰安所制度は公娼制度の戦地版」という意見

つぎに

慰安所制度は公娼制度の戦地版」という意見も秦郁彦さんやその影響を受けた読売新聞などの主張です。しかしこれは詭弁だと思います。なぜなら、戦前の読売新聞は「公娼制度は奴隷制度」と訴えていたからです。

 

f:id:horikekun:20200324061304j:plain

『読売新聞』1927年2月10日付、朝刊3面「公娼制度なるものは、(中略)事実上の人身売買にして、又一種の奴隷制

 

 

f:id:horikekun:20200324061451j:plain



『読売新聞』1930年12月19日付、朝刊2面

「廃娼運動が全国的ならんとしつつあるのは、(中略)喜ばしき傾向である」「人身売買が公然と」

 

f:id:horikekun:20200324061628j:plain

読売新聞』1931年6月10日付、朝刊2面)

奴隷制度にも類すると『読売新聞』1934年5月18日付、朝刊3面

 

f:id:horikekun:20200324061104j:plain

35年3月16日娼妓は奴隷

 

[戦前の『読売新聞』は「娼妓は奴隷」と廃娼キャンペーンを張っていた]

 

理屈が合わないですよね。公娼制度が奴隷制度で、その公娼制度の戦地版が慰安婦制度であるなら、慰安婦制度も奴隷制度ということになりますよ。

 

それとも読売さん、この記事郡を取り消しますか?80年も前の記事ですけど

 

これは秦さんも同じですよ。

秦さんは『慰安婦と戦場の性』p36-37で「まさに「前借金の名の下に人身売買、奴隷制度、外出の自由、廃業の自由すらない20世紀最大の人道問題」(廊清会(かくせいかい)の内相あて陳述書)にちがいなかった。」と書いています。

 

f:id:horikekun:20200324062854j:plain

まさに「人身売買、奴隷制度に・・・違いない」とすると慰安婦制度も奴隷制度ということになりますね。理屈としてそうでしょ。

  

          挺身隊という言葉

p265から挺身隊と慰安婦の混同について書いています。これも秦さんの『慰安婦と戦場の性』のp366、それから西岡力さんも繰り返しその手の事を書いています。

 

イ・ヨンフンさんは「報道を訂正しろ」とか述べていますが。これについては後で説明します。

         

        慰安婦の人数と民族比率

反日種族主義』p268で慰安婦の人数を「1万8千人」として、「慰安婦たちの民族別構成」も「一般的です」と述べていますが、秦さんの『慰安婦と戦場の性』P397~410のそのままか、少し変形させているだけ。  

 

慰安婦の人数について秦さんの説は矛盾だらけで、約2万人の内2割が朝鮮人だいうのですから、朝鮮人慰安婦は4000人になるのですが、秦さんは(41年8月の)関東軍特種演習での3000人の慰安婦徴集を認めているのです。

 

するとそれだけで4000人の内3000人が埋まってしまう。

それから、「捕虜尋問49」という資料によると第4次船団でビルマなどに行った朝鮮人慰安婦は約700人いますから、それだけで3700人が埋まってしまいます。そるとあの広大な中国大陸やフィリピンやインドネシアラバウルや太平洋の島々にはわずか、300人弱しかいなかったという計算になります。

 

そんな事はあり得ない。

秦さん自身が、p399の票2-9の中国の接客業女性数を提示しており、「半分が慰安婦」と推定していますから、すると中国の朝鮮人慰安婦はこの時点だけで3000人強になるのです。お話になりません。

 

慰安婦たちの民族別構成」について秦さんは、「推定したい」「あえて比率を・・・となろう」としており、自信の無さを伺えます。

 

f:id:horikekun:20200324064258j:plain

それもそのはず、断定するような資料はほとんど無いからです。

 

しかし、イヨンフンさんは「関連資料を読んだこともないのではないかと思います」(p268)なんて威高々に述べていますが、イヨンフンさんの方が秦氏を鵜呑みにするだけで精査しておらず、関係資料を知らないと思います。

 

関係資料 ↓

horikekun.hatenablog.com

          

          慰安婦高額報酬説

 

慰安婦の高額報酬説も述べていますが、これについては 秉直(アン・ビョンジク)さんの「朝鮮人慰安所従業員の日記」の解説やその研究チームの一人である堀和生(京都大学経済学研究科教授)が否定していることも知っておくべきことです。

 

朱益鍾チュ・イクジョンの著作の翻訳もある堀和生(京都大学経済学研究科教授)は、京大東アジアセンターNews Letterで

http://www.kr-jp.net/ronbun/msc_ron/hori-1502.html 京大東アジアセンターNews Letter

 

 

「日々書かれたこの日記には、慰安婦慰安所従業員・経営者の貯金、預金、送金の話が頻繁に出てくる。この件に関して、経済史研究者として若干コメントしておく必要を感じる。というのは、慰安婦の経済的地位について、「将軍以上のより高収入」とか、「陸軍大臣よりも、総理大臣よりも、高収入であった慰安婦のリッチな生活」いう俗説が流布されているからである。」

 

「それが意味するとことはただ一つ、文さんの貯金は日本内地の円貨ではない、ハイパーインフレで価値が暴落しているルピー建ての収入であったということである。それが具体的にどのように彼女の手にはいったのかまではわからない。南方の慰安所は、日本軍の内部経済とハイパーインフレのなかにある軍外の現地経済にまたがって存在していたために、慰安婦達の収入にはこのような名目上の膨張が生じた。このようなハイパーインフレ下の見かけの収入額をもって、秦郁彦氏(2013年06月13日TBSラジオ番組「『慰安婦問題』の論点」)のように慰安婦が「日本兵士の月給の75倍」「軍司令官や総理大臣より高い」収入を得ていたと評価することは、過度な単純化ではなく事実認識としてまったく間違っている。」

 と書いています。

 

秉直(アン・ビョンジク)元教授も「日本軍慰安所管理人の日記」(2013/8)の解題で、慰安婦の高額報酬を否定しています。

 

f:id:horikekun:20200324070654j:plain

ソウル大学の安秉直教授の研究チームが発掘した、「日本軍慰安所管理人の日記」(2013/8)

http://www.naksung.re.kr/xe/index.php?mid=sepdate&document_srl=181713&ckattempt=2

日本軍慰安所管理人の日記.pdf(3.23MB)(6,460)

 

 http://texas-daddy.com/comortwomendiary.pdf

 

 



『反日種族主義』検証 ファクトチェック 「女子挺身勤労令」は朝鮮では施行されていない?

ファクトチェック 

 

「1944年8月、日本は「女子挺身勤労令」を発布し、12歳から40歳の未婚女

性を軍需工場に動員しました。ただし、この法律は朝鮮では施行されませ

んでした」(p266)

とイ・ヨンフンは書いている。

  

 

 

 

以前イ・ヨンフンは「・・・日帝は、44年8月に「女子挺身勤労令」を発動して、12歳から40歳の未婚女性を産業現場に強制動員する。だが、この法令は日本人を対象としており、植民地朝鮮では公式に発動されなかった」(「国史教科書に描かれた日帝の収奪の様相とその神話」小森陽一編『東アジア歴史認識のメタヒストリー「韓日、連帯21」の試み』p97)と書いていたが、少し表現を変えたようだ。

 

この『反日種族主義』では「強制動員」という理解はしなくなり、「施行されませんでした」にしている。

 

しかし金富子(東京外国語大学総合国際学研究院(国際社会部門・国際研究系)教授)は、「女子挺身勤労令は1944年、8月22日に、勅令519号として日本と朝鮮で同時に公布、施行されました」と書いている。

(『朝鮮人慰安婦」と植民地支配責任』P19)

 

さて、どちらが正しいのか?

 

勅令519号を確認したところ、どこにも内地限定にする文言がないばかりでなく、第二十一條でこう書かれている。

第二十一條 本令中厚生大臣トアルハ朝鮮ニ在リテハ朝鮮總督、臺灣ニ在リテハ臺灣總督トシ地方長官トアルハ朝鮮ニ在リテハ道知事、臺灣ニ在リテハ州知事又ハ廳長トシ市町村長トアルハ朝鮮ニ在リテハ府尹(京城府ニ在リテハ區長)又ハ邑面長、臺灣ニ在リテハ市長又ハ郡守(澎湖廳ニ在リテハ廳長)トシ國民勤勞動員署長トアルハ朝鮮ニ在リテハ府尹、郡守又ハ島司

、臺灣ニ在リテハ市長又ハ郡守(澎湖廳ニ在リテハ廳長)トシ都道府縣トアルハ朝鮮ニ在リテハ道、臺灣ニ在リテハ州又ハ廳トス

 

(第21条 本令中厚生大臣とあるは、朝鮮に在りては朝鮮総督、台湾に在りては台湾総督とし、地方長官とあるは、朝鮮に在りては道知事、台湾に在りては州知事又は庁長とし、市町村長とあるは、朝鮮に在りては府尹(京城府に在りては区長)又は邑面長、台湾に在りては市長又は郡守(澎湖庁に在りては庁長)とし、国民勤労動員署長とあるは、朝鮮に在りては府尹、郡守又は島司、台湾に在りては市長又は郡守(澎湖庁に在りては庁長)とし、都道府県とあるは、朝鮮に在りては道、台湾に在りては州又は庁とす。)

 

附則

本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス

 

  (該当部分画像)

 

 

 

なるほど朝鮮半島や台湾にも公布・施行している。

 

結局、イ・ヨンフンは自分で資料を読んでおらず秦郁彦朴裕河の書いたものを鵜呑みにしているのであろう。

 

こうした鵜呑みはイ・ヨンフンだけではなく、イ・ウヨンやチュ・イクジョンの論じる内容にも見られる。ほとんどが日本の右派・・・要するに産経新聞や「正論」誌、WILLなどに書かれている論文、特に西岡力秦郁彦の受け売り・鵜呑みか、多少変形しただけの内容が多い。

 

 

「私の立場は、これまでの歴史研究における方法論を批判、反省するという意味合いを強く持っている。」とイ・ヨンフンは述べているが

https://www.j-cast.com/2019/11/21373279.html

 

元史料を確認せず、ファクトを日本の右派に追従するという方法論が「批判、反省するという意味合い」らしい。

 

慰安婦はどのように集められたか?多くは欺罔・詐欺

 

 

徴集方法=多くが騙された(下線=欺罔・就業詐欺事例)

 

 

 

 

極東国際軍事裁判東京裁判)の判決 

中国の桂林

 

極東国際軍事裁判速記録』10巻・雄松堂書店,1968年,p.186

 

桂林を占領している間、日本軍は強姦と掠奪のようなあらゆる種類の残虐行為を犯した。工場を設立するという口実で、かれらは女工を募集した。こうして募集された婦女子に、日本軍隊のために醜業を強制した。

第五十九師団(済南駐屯)の伍長・榎本正代の証言

中国中部の山東

 

秦郁彦慰安婦戦場の性』 新潮社,1999年,p.382)

一九四一年のある日、国防婦人会による〈大陸慰問団〉という日本人女性二百人がやってきた……(慰問品を届け)カッポウ着姿も軽やかに、部隊の炊事手伝いなどをして帰るのだといわれたが……皇軍相手の売春婦にさせられた目的はちがったけど、こんなに遠くに来てしまったからには仕方ないわが彼女らのよくこぼすグチであった。将校クラブにも、九州女学校を出たばかりで、事務員の募集に応じたら慰安婦にさせられたと泣く女性がいた

神奈川新聞社編集局報道部編『満州楽土に消ゆー憲兵になった少年』神奈川新聞社、2005年

p202

こっちは義勇軍に入った時から、まともに女性と接する機会なんて皆無だったでしょう。ドキドキした。早く布団に入りなよ、と荒っぽい口調で言われてね。それでいて「吉林の軍需工場で働いていたら、突然ここに連れてこられた」なんて、僕を責めるんだ。自殺した娘もいるのよって言われて、気分が滅入っちゃって』。日本人の相場の4分の1が朝鮮人、さらにその半額が中国人の“値段”だったと、菅原さんは記憶している。

関東軍兵士
中国東北部黒竜江省
長尾和郎『関東軍軍隊日記 - 一兵士の生と死と』経済往来社,1968年

 

これらの朝鮮女性は従軍看護婦募集」の体裁のいい広告につられてかき集められたため、施設で営業するとは思ってもいなかったという。それが満州各地に送りこまれて、いわば兵士達の排泄処理の道具に身を落とす運命になった。わたしは甘い感傷家であったかもしれないが、戦争に挑む人間という動物の排泄処理には、心底から幻滅を覚えた。……

 
 

第七三三部隊工兵一等兵の記録、
中国東北部吉林省・琿春

『私たちと戦争〈2〉戦争体験文集』タイムス,1977年,p.32
島本重三 軍「慰安所

 

兵隊専用のピー屋(慰安所)は琿春の町に五軒散在していた。一軒の店に十人ほどの女がいた。『兵隊サン、男ニナリナサイ』。朝鮮の女たちは道ばたに出て兵隊を呼びこんでいた。まだ幼い顔の女もまじっていた。

 兵隊の慰問のために働くのは立派なことで、その上に金をもうけられると誘われ、遠い所までつれてこられた。気がついたときは帰るにも帰れず彼女らは飢えた兵隊の餌食として躯(からだ)を投げださねばならなかった。

 

 

古山高麗雄『身世打鈴』中央公論社、1980年

その頃私はすでに朝鮮女性が挺身隊の名で徴集され、慰安婦として前線に送られるからくりを知っていた。それは私が最後に新義州を離れたのが昭和17年で、その頃には平安北道でも、強制徴用が始まっていたからだろう。そういう徴用があることを私に教えてくれたのは、私の家ー新義州病院に勤めていた桂国太郎であった。桂国太郎の本姓は朴である」「桂国太郎を誘って毎晩飲みに行った。前もって、窓の鍵をはずしておいて、明け方、その窓から家に入った。桂とそういうことをしながら、私は、女子挺身隊の話を聞いたのだろう。ビルマのネーパン村に彼女たちがやって来ても、私が彼女たちを求めなかったのは、朝鮮人狩りに対する反発もあってのことだったかも知れない。そういう女たちを争って抱く気にはなれなかった。

軍医の記録
中国中部・湖北省武漢
長沢健一『漢口慰安所』図書出版社,1983年

若い女は尻を引っこめ、二つ折りになったような格好で後ずさりしている」「私は二階回りに手を離させ、カーテンの内側に誘って事情を聞いた。女は昨日午後、内地から来たばかりで、今日検査を受け、あしたから店に出すことになっているが、検査を受けないと駄々をこねて困っているという。私は女も呼び入れさせた。赤茶けた髪、黒い顔、畑からそのまま連れてきたような女は、なまりの強い言葉で泣きじゃくりながら、私は慰安所というところで兵隊さんを慰めてあげるのだと聞いてきたのに、こんなところで、こんなことをさせられるとは知らなかった。帰りたい、帰らせてくれといい、またせき上げて泣く

伊藤桂一慰安婦と兵隊」

金一勉編著『戦争と人間の記録・軍隊慰安婦現代史出版会、1977年

戦火が拡大し、長引き、兵力の動員が際限もなく続くにつれて、慰安婦も、とうてい、志願者や経験豊富の玄人ばかりを集めるわけにいかなくなった。数が足りないのである。ことに、慰安所というものが、兵站なみに必要視されてくると、どの部隊でもその設置を考える。そのため、慰安婦を外地へ連れて来て間に合わせるため、ついに手段を選ばぬ業者が出てくることになったのである。つまり、女をだまして連れてくるわけである。料亭や酒場で、水商売をやっている女を好条件で釣り、うまく話に乗せる。ところが目的地に着くと、慰安婦としての仕事が待っている。女が、死ぬ気で抵抗すれば抵抗できないこともなかったにしろ、おどされたり、因果をふくめられたり慰安婦の使命感?まで説かれてみると、いまさら帰国したからといって別にいい暮らしが待っているわけではないし、ずるずるに、慰安婦の仕事に入ってゆくことになったのである」「日本の軍隊に、最大の貢献をしてくれたのは、質量ともに朝鮮人慰安婦であるだろう。戦場慰安婦、といえば、そのイメージは、朝鮮人慰安婦に尽きる、といえるかもしれない。朝鮮人にしても、強制されて出て来る者も多かったし、また、何をやっても内地の女よりは秀れているのだ、ということを認めさせるために、あえてがんばっていた女たちだっている。複雑な心情がそこにある

作家の伊藤桂一
中国
伊藤桂一『兵隊たちの陸軍史 - 兵営と戦場生活』番町書房,1969年,p.212

 

 兵隊と、なんらかの意味で接触する女性は、慰安婦のほかには、中国民衆(つまりその土地の住民)、在留邦人、慰問団、それに看護婦くらいなものだろう。このうち、慰安婦がいちばん兵隊の役に立ってくれていることは事実だが、慰安婦も多くは、欺(だま)されて連れて来られたのである

中国

伊藤桂一『戦旅の手帳』光人社,1986年

騙すのは、看護婦にする、というのと、食堂の給仕にする、というのとつまり肉体的供与を条件とせず連れて行って、現場に着いたら因果を含めたものである。逃げる方法はない。

 

 

独立混成第4旅団の兵士、近藤一
中国北部の山西省太原
『特集「慰安婦」100人の証言』DAYS JAPAN 2007年6月号,p.16

 

大隊本部がある太原には慰安所がありました。(略)朝鮮人のところへ行った時には話をしただけでした。彼女は田舎の出身で家が貧しく、お金儲けができるからと日本の工場へ誘われて来たのに、気がついたら慰安所、結局あきらめざるをえなかったと言っていました。

昭和15年5月ごろ、中国・湖北省

小俣行男『戦場と記者』

p172-173

こんな前線には、もったいないような若くて、程度のよい女たちだった。この程度の女たちなら、こんな前線へ来なくても、どこでも立派に働けると思って、そのうちの1人、丸顔の可愛い娘に聞いてみるとーー『私は何も知らなかったのね。新宿の喫茶店にいたのだけれど、皇軍慰問に行かないかってすすめられたのよ皇軍慰問がどういうことかも知らなかったし、話に聞いた上海へ行けるというので誘いに乗っちゃったの。支度金も貰ったし、上海まで大はしゃぎでやってきたら、前線行きだという。前線って戦争するところでしょう。そこで苦労している兵隊さんを慰問できるなんて素敵だわーーと思ってきてみたら、「とい(特殊慰安所の特慰)街」だったじゃないの。いまさら逃げて帰るわけにも行かないし、あきらめちゃったわーー』

 

 

 

 


著者は読売新聞の従軍記者
1942年5月か6月頃
ビルマ
小俣行男『戦場と記者 - 日華事変、太平洋戦争従軍記』冬樹社,1967年
p335


私の相手になったのは23、4歳の女だった。日本語は上手かった。公学校で先生をしていたと言った。「学校の先生がどうしてこんなところにやってきたのか」と聞くと、彼女は本当に口惜しそうにこういった。私たちはだまされたのです。東京の軍需工場へ行くという話しで募集がありました。私は東京に行ってみたかったので、応募しました。仁川沖に泊まっていた船に乗り込んだところ、東京に行かず南へ南へとやってきて、着いたところはシンガポールでした。そこで半分くらいがおろされて、私たちはビルマに連れて来られたのです。歩いて帰るわけに行かず逃げることもできません。私たちはあきらめています。ただ、可哀そうなのは何も知らない娘達です。16、7の娘が8人にいます。この商売は嫌だと泣いています。助ける方法はありませんか」

   
 

 

歩兵第150連隊

昭和19年2月からトラック島

 

山本茂実『松本連隊の最後』角川文庫、1978年発行(単行本、近代史研究会、1965年発行)

p283


『お国のため』に連れてこられ、品物かなんぞのように軍隊の慰みものになっているのだ。彼女らの中には根っからの慰安婦ではなく、軍の事務を執るのだとだまされてきた良家の娘も多いということだった。

陸軍軍医。昭和13年から17年、中国戦線、19年から敗戦までフィリピン戦線。敗戦後、フィリピンの米軍病院で日本人捕虜の診療。



守屋正 『比島捕虜病院の記録』金剛出版、1973年

 


中国では検黴担当の軍医として、こうした女性には多数接した。ある女は『料理店の女給になるのだといって何も知らずに連れて来られた』といっていた。

 

 

元アンボン海軍特別警察隊(憲兵)隊長
禾晴道著『海軍特別警察隊ーアンボン島BC級戦犯の手記』太平出版社、1975年

1945年3月、インドネシアのアンボン島。一度は閉鎖された軍慰安所が海軍の司令部参謀によって再び計画され、新しい軍慰安所3軒が同年5月頃に開設される過程。

副官の大島主計大尉は、なにがなんでもやってやるぞ、という決意を顔一面に現わして、「司令部の方針としては、多少の強制があっても、できるだけ多く集めること、そのためには、宣撫の物資を用意する。いまのところ集める場所は、海軍病院の近くにある元の神学校の校舎を使用する予定でいる。集まって来る女には、当分の間、うまい食事を腹いっぱい食べさせて共同生活をさせる。その間に、来てよかったという空気をつくらせてうわさになるようにしていきたい。そして、ひとりひとりの女性から、慰安婦として働いてもよいという承諾書をとって、自由意志で集まったようにすることにしています」。

 そこまで準備が考えられて、承諾書までとる話にはわたしも驚いた。副官は法科でもでているのか、と思われた。

 こんな小さな島に、これだけの銃をもった日本軍が陣地をつくっているのだから、日本軍の要求することを自由意志で拒否もでき、承諾もするという対等な自由が、本当に存在すると思っている考え方もじつに自分勝手であっただろうが、そんなことに気づいていなかった。

(中略)

 民政警察の指導にあたっていた木村司政官が敗戦後、戦犯容疑者として収容されたとき話してくれたが、その時の女性集めにはそうとう苦しいことがあったことを知った。

 「あの慰安婦集めでは、まったくひどいめに会いましたよ。サパロワ島で、リストに報告されていた娘を集めて強引に船に乗せようとしたとき、いまでも忘れられないが、娘たちの住んでいる部落の住民が、ぞくぞく港に集まって船に近づいてきて、娘を返せ!! 娘を返せ!! と叫んだ声が耳に残っていますよ。こぶしをふりあげた住民の集団は恐ろしかったですよ。思わず腰のピストルに手をかけましたよ。思い出しても、ゾーッとしますよ。敗れた日本で、占領軍に日本の娘があんなにされたんでは、だれでも怒るでしょうよ」。

 わたしは、そこまで強制されたとは知らなかった。

昭和17年11月

シンガポール

徳川夢声著『夢声戦争日記(2)』中公文庫、1977年

どうして慰問の熱意を失ったかを、次々に記したいと思う。前記〝大和部隊〟なるものだけでも、私は軍が厭になった。これは若き大和撫子の部隊であった。彼女たちは、皆ダマされてこんなところへ拉致されたのである。--若キ愛国ノ女性大募集。--南方ニ行キ、皇軍ニ協力セントスルノ純情ナル乙女ヲ求ム。--大和撫子ヨ、常夏ノ国ニ咲ケ。というような、勇ましく美しい文句に誘われて気の毒な彼女たちは、軍を背景に持つゼゲン共の口車に乗せられ、高らかな理想と、燃ゆるが如き愛国の熱情と、絢爛たる七彩の夢を抱いて遥るばると来たのである。軍当事者とゼゲン師どもは、オクメンもなく、娘たちの身元を調査し、美醜を選び、立派な花嫁たるの資格ある処女たちを、煙草や酒を前線に送るくらいの気もちで、配給したのであった。なんたる陋劣! なんたる残酷! --あらっ、こんな約束じゃなかった。と気がついた時は、雲煙万里、もうどうしようもない所に置かれていた。

 

陸軍パイロットの証言

マレー

従軍慰安婦110番 - 電話の向こうから歴史の声が』明石書店,1992年,p.54

 

「トミコ」という源氏名朝鮮人慰安婦がいましたが、彼女が「私たちは軍属募集され、お国のためと志願してきたのに、裏切られて…もう、国には帰れない」と話していました。この慰安所の経営者は、年配の日本人でした。

ウェワクからラバウルに帰還した兵士の記録

菅野茂『7%の運命 - 東部ニューギニア戦線 密林からの生還』光人社,2005年

 

大勢の兵隊がもの珍しそうにその兵隊たちの中にY軍曹と運転手のE上等兵の姿があったので、私たちが近寄ると、「あの娘たちは、海軍の軍属を志願したそうだが、だまされて連れてこられたらしい。あの娘は富山の浴場の娘だと」E上等兵は、指差しながら、気の毒そうに私たちの耳元でささやいた。
 なるほど言われてみると、どの娘も暗く沈んだ表情。ろくに化粧もなく、どう見ても巷で働く女たちではなかった。炎天の中に和服を着て柳行李を持っている姿が、一層いたましく写った。男も女も滅私奉公の時代である。だが、私には割り切れなかった。こんなことが公然と行われてよいのだろうか。私は胸に噴き上げるものを抑えながらその場を去った。

 

1943年末頃、ラバウル近郊のココポ(ココボ)

水木しげるラバウル戦記』P30

彼女たちは徴兵されて無理矢理つれてこられて、兵隊と同じような劣悪な待遇なので、みるからにかわいそうな気がした。

著者のカリフォルニア州に住む「コリアン」への聞き取り

 

ヒルディ・カン『黒い傘の下で』副題「日本植民地に生きた韓国人の声」ブルース・インターアクションズ、2006年

キム・ボンスク(女性・1924年生まれ・主婦・京畿道)::私が20歳くらいのとき、町の愛国班の人が、私の年齢と、結婚しているかどうかを調べに来ました。あの人たちは総督府の規則や命令を徹底させるためのスパイ組織で、番犬みたいなものです。次に町の警官がやって来て、召集があったので指定された日に国民学校の校庭に行くようにと言われたのです。同じ年ごろの女の子がほかにも大勢呼ばれていました。そして日本人がこう言いました。おまえたちは看護婦となって大日本帝国軍人のお世話をし、待遇もとてもいいのだそうです。それを聞いて大張り切りした子もいました。前線に送られるというので、その前に訓練がありました。それぞれ木でできた銃を渡され、練習をさせられました。その銃は銃剣の代わりで、それを地面に立てたわら人形にこれでもか、これでもかと突き刺すのです。そんなこと大嫌いでした。両親は私を結婚させようと決めました。そうすれば行かなくていいと思ったからです。こうして私は両親に言われるまま結婚しました。ずっと後になって、外国の前線に送られた女性たちが、泣く泣く慰安婦になったことを知りました。

ビルマ戦線

藤井重夫『非風ビルマ戦線』 

ラモウの軍慰安所のマリ子という名の朝鮮人慰安婦朝鮮の師団司令部兵務部が募集する「特志看護婦」に応募し、軍歌と日の丸に送られて、釜山から輸送船でラングーンに上陸し、前線に送られたが、来てみると仕事は淫売婦と同じであった。

スマトラにいた兵士の記録、コタラジャの慰安所
須藤友三郎「インドネシアで見た侵略戦争の実態」
『こんな日々があった戦争の記録』
上越よい映画を観る会,1995年

 

スマトラ島の最北端にコタラジャという町があります。私たちは最初ここに上陸し駐屯しました。この町には当時日本軍の「慰安所」があり、朝鮮人の女性が二十名程、接客を強制させられていました。みんな二十才前後と思われる農村出身の人たちでした。「慰安所」の建物は、ベニヤ板で囲った急ごしらえのもので、周囲は有刺鉄線が張りめぐらされ、女性たちが逃亡できないよう看守づきのものでした。……
 慰安婦」の話によると、当時の朝鮮の農村は貧乏でした。その弱みにつけ込んで、一人当たり二十円程度の前渡金をもってきて、「日本本土の工場労働者になってもらいたい」と親をダマし、徴用されたというのです。ところが船に乗ると日本本土どころか南方に連れてこられ、しかも突然日本軍の将校にムリヤリ売春を強制させられたと、涙を流して「悔しい」と泣いていました。
 しばらくして今度は農村の椰子林の中にまた「慰安所」ができました。ここには、インドネシア若い女性が十名程収容されていました。この人たちの話によると、ジャワ島の農村から、朝鮮人の女性と同じようなやり方で連れてこられたと憤慨していました。

 

スマトラパレンバン憲兵軍曹として慰安所に関わった憲兵の記録、
インドネシアスマトラ島
土金冨之助『シンガポールへの道〈下〉- ある近衛兵の記録』創芸社,1977年

 

私が一人で行ったある日、彼女は「私達は好き好んで、こんな商売に入ったのではないのです。」と、述懐するように溜息を吐きながら語った。「私達は、朝鮮で従軍看護婦、女子挺身隊、女子勤労奉仕隊という名目で狩り出されたのです。だからまさか慰安婦になんかさせられるとは、誰も思っていなかった。外地へ輸送されてから、初めて慰安婦であることを聞かさた。」
彼女等が、初めてこういう商売をするのだと知った時、どんなに驚き、嘆いたことだろうと考えると気の毒でなら
ない。……彼女の頬には、小さな雫が光っていた。……

 

1944年8月10日ごろ、ビルマのミッチナ陥落後の掃討作戦において捕らえられた20名の朝鮮人慰安婦と2名の日本人の周旋業者に対する尋問調書。
場所:ビルマ・ミッチナ

アメリカ戦時情報局心理作戦班 『日本人捕虜尋問報告 第49号』 1944年


1942年5月初旬、日本の周旋業者たちが、日本軍によって新たに征服された東南アジア諸地域における「慰安役務」に就く朝鮮人女性を徴集するため、朝鮮に到着した。この「役務」の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに、楽な仕事と新天地――シンガポール――における新生活という将来性であった。このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、2、3百円の前渡し金を受け取った。

 


第十八師団の兵士の、日本から騙されて連行されてきた在日・朝鮮人女性についての記録。場所:ビルマミャンマー )、中国・海南島
山口彦三『ビルマ平原 落日の賦』まつやま書房,1987年
(吉見義明『従軍慰安婦岩波新書,1995年,p.91)


第十八師団の兵士が、ビルマのメイミョーの公光荘という軍慰安所で出会ったマリ子という日本名をもつ朝鮮人慰安婦から聞いた話によれば、彼女は、下関に住んでいたとき「対馬陸軍病院で雑役婦を募集しているから行かないか」という話を聞き、紹介人が朝鮮人の産婆で信用できる人なので応募したら、約一〇〇名の女性と一緒に海南島の軍慰安所に送り込まれたという。


カリマンタン・タラカンにいた輜重兵第三二連隊第一中隊の戦中記
1944年
輜重兵第三二連隊第一中隊 戦友会 八木会編『我らの軍隊生活』


 慰安婦は三十名余りおり、その中の一人に源子名(ママ)を清子(本名リナー)と名乗る十八才の若い娘を知り、よく遊びに行った。彼女らはセレベス島のメナドから、東印度水産会社の事務員にすると騙(だま)されて、ガレラに連れてこられ、慰安婦にさせられたそうである。彼女らの女学生時代のセーラ服姿の写真を見せられたが、日本の女学生と同じ服装で、メナド人はミナハサ族といって色白で、日本人によく似た顔立ちで美人であった。彼女らは当時としては高等教育を受けた良家の子女達であった。

海軍軍属設営隊員の河東三郎
インド領ニコバル諸島

河東三郎『ある軍属の物語 - 草津の墓碑銘』(初出:新読書社,1967年)日本図書センター,1992年

 

 かの女ら慰安婦の多くは、戦地に行くと無試験で看護婦になれるとだまされてきたのだそうだ。かの女らは看護婦になるつもりで、戦地に従軍してきたらしい。そんなわけで、かの女らも、私たちと同じ軍属である。だまされたといって、最初、かの女らは泣きわめいたそうだが、かの女らは、『特殊』という看護婦にはちがいなかった

海軍所属の兵士・鹿野正伍
トラック諸島の夏島(ミクロネシア

鹿野正伍『ある水兵の戦記』光風社,1978年

 

(夏島の慰安所で)妓に内地に手紙を出してくれと頼まれた。「助けると思って、中を読んでください。騙されて連れてこられました妓は掌(てのひら)を合わせた。媚びた感じではない。妓の目尻に光るものがみられた。

1942年
第4海軍施設部軍属
トラック諸島の夏島 南國寮

『海を越える一〇〇年の記憶』図書新聞,2011年
松原勝「軍による『慰安所』管理は紛れもない事実」p.109-127

 

 源氏名でみどりさんという人がいてね、当時22歳っていってました。だまされてこんな所に連れてこられたってね。私がそこへ行き泊ると、泊まりを受けなかった女の子たちが3、4人集まってきて、いろいろ話をしてくれました。私はどこどこの出身だけど、親やきょうだいと引き離され、だまされてきたんだというわけですよ。人によってはね、子どもや夫にも引き離されてきたんだと泣いて訴えるわけです。高級将校のメイドにならないかとか、海軍病院の雑役の仕事だとか、30円くらいの月給で食事も泊まる所もただだから1年くらいこないかとね。でも、ここへ連れてこられて初めて仕事を知って心が裂けるように思ったと。ひどい話で、日に10人もの相手をさせられるとも言ってました。僕が第四海軍施設部の職員だと知っていたし、若かったからね、気を許していろいろなことを話してくれました。
 トラック島の「慰安婦」は、朝鮮の女性がほとんどでしてね、私の叔母が朝鮮の方と結婚しているということや学生のころ朝鮮人の知り合いもいて、朝鮮人には特別な気持ちを持っていたことも関係していると思いますね。

 


陸軍通訳の永瀬隆の証言
シンガポール

青山学院大学プロジェクト95『青山学院と出陣学徒 戦後50年の反省と軌跡』p218
永瀬隆インタビュー「私の戦後処理」
 1995年

「通訳さん、実は私たちは国を出る時シンガポールのレストランの食堂でウエイトレスをやれと言われました。その時もらった100円は家族にやってでてきました。そして着いたら慰安婦になれと言われたのです」
彼女たちは私に取りすがるように言いました。・・(略)・・・その慰安所が始まる前に、小太りの隊長が毎晩彼女たち一人ひとりを試しているのを聞かされました。・・・これが軍隊かと。やっていることは前の西欧の植民地よりひどいものでした。

 

 

 

 

沖縄で慰安婦生活をさせられたペ・ポンギさんから聞き取り

川田文子『赤瓦の家 朝鮮から来た従軍慰安婦

筑摩書房  1987.2

p39


(1943年晩秋 興南で見知らぬ男に声をかけられ 軍に結び付いた周旋屋と通訳)
皆商売する人はうまいこと言うね。「仕事せんで金儲かるところがある、行かないか」っていうさ。「仕事しないででんな風に金が儲かるのかね?」「とにかく行ったら儲かる。洋服も要らない。布団も捨てて行きなさい。・・・(略)・・・とにかく儲かる。あんた一人でこの金どうするか」そういうもんだから、あんまり嬉しくてね、そんな金があったらどうしようかね、あれこれ考えて、飯も喉を通らないくらいさね。

日本人慰安婦菊丸さんからの聞き取り

トラック島に向かう

広田和子『 証言記録従軍慰安婦・看護婦 戦場に生きた女の慟哭』

 新人物往来社 – 1975

p19

 

同様の聞き取りが1971年『週刊アサヒ芸能』に掲載され、平塚柾緒編『知られざる証言者たちー兵士の告白』 (p339ーp349)にまとめられている。


横浜を出て神戸に寄って、それから朝鮮の釜山。釜山で朝鮮人の女性もかなり乗船したわよ。彼女たちは私たちと違って志願じゃないらしくチョゴリを着て、「アイゴ、アイゴ」と泣く姿がなんとも悲しくて……私もつられて泣いてしまったわ。

昭和19年、応召し、ビルマ方面で戦う。著者の体験、戦友の証言のまとめ。

 

品野実著『異域の鬼』谷沢書房、1981年。

 

慰安婦の)第一陣が到着したのは昭和17年の暮れも押し詰まっていた。初めは朝鮮娘10名だった。みんな将校クラブ勤務とか挺身奉仕隊など『お国のため』という、かっこよい触れ込みにだまされて集められた。逃げ場のない輸送船内で、抱え主に事実を告げられいい含められて、泣く泣く『実習』で仕込まれてきた娘たちだ

本田忠尚著『茨木機関潜行記』図書出版社、

1988年

南方要員の回想。

p73~74

 

(その女は)朝鮮人の娼婦だが、かなりの美人であり、娼婦になるような素性の女とは思えなかった。わけを聞くと、軍の補助要員という名目で採用されたが、段々格下げになり、ピー屋に落ち込んだという。つまり、だまされて連れてこられたのである

著者は、予科練出身搭乗員として、昭和17年7月から約1年間は南方・ラバウル

 

角田和男著『修羅の翼』今日の話題社、1990年

p133-134

不思議に思い色々事情を尋ねると、ここラバウルに今いる海軍下士官兵用の慰安婦は、殆どが元山付近の北朝鮮出身者が多いのだが、初めは女子勤労挺身隊として徴用され、横浜に着いた時に、内地の軍需工場に働く者と前線の慰安部隊との希望を聞かれ、気の強い仲間が仕事の内容は知らずにお茶汲みか食事洗濯の手伝い位に考えて前線を希望したのだという。船に乗せられてトラック島に向う途中で初めて慰安婦の仕事を説明され、驚いたが既に遅かった。船の中では、毎日、これも天皇陛下のためであると教育され、トラックを経由、ラバウルに着いた時は大部分の者があきらめ、しばらくの間は4、5名の者が言う事を聞かなかったが、今では故郷に許婚者が待っているという一人だけが頑張って何と言われても聞かず、仲間の洗濯、炊事などをしているということであった。

昭和19年7月、「軍夫徴発令状」により、他の朝鮮人とともに、奄美大島沖縄本島で軍夫として働き日記をつけていた。

 

金元栄著『朝鮮人軍夫の沖縄日記』三一書房、1992年

彼女の身の上に好奇心をおぼえた。『娘さんは、どうしてここに来たの?』。私の問いに、彼女は答えず、ただ首をうなだれたまま、顔を赤らめるだけだ。抱え主がつけてくれた名は、貞子だという。
1月18日、ためらっていた貞子が、やっと口を開いて、次のような話を聞かせてくれた。貞子は、ソウル近郊の農家のひとり娘として生まれた。高等女学校5年に進級した頃(父親が財産をなくした上に病死)。貞子は学校をやめ、京城のある百貨店に就職し母親は裁縫台で、賃仕事(ところが)貞子は、多くの同僚達とともに、勤めていた百貨店を解雇された。解雇されて、する事もなく遊んでいる娘、ということになれば、明日にでも、挺身隊志願の勧告を受けるだろう。こういう切迫した時期に、母親は愛国班長から、耳よりな話を持ちかけられた。内地にある民営企業で、女工を募集しているのだが、千円の前金をもらえ、2年間の契約で、寝食を提供された上に、50円の月給ももらえる、という条件だった。母親は、『娘を挺身隊からのがれさせたい』一心で、この話にとびつき、貞子は貞子で、千円の金があれば、母親が楽に暮せるだろうと考えて、募集に応じる決心をした。「愛国班長の立会いの下で、母子の印を押して、千円の現金を、其の場でもらった。3日後に、貞子は見知らぬ男に伴われて、釜山までやって来た。そこで、10人の女達と合流した時、彼女はすでに、人肉市場の捕らわれの身となってしまっていたのだ

 

元飛行第21戦隊陸軍准尉・水柿敏男の手記「翼の陰に」の一節。

 

『太平洋戦争ドキュメンタリー・第22巻・栄光マラソン部隊』今日の話題社、1970年

 (228~229)

 

栗田軍曹も女には目がない。パレンバンには慰安所の女だけど、いい彼女が彼を待っている。横浜で生まれ、横浜の昔の女学校を卒業した朝鮮の女だ。毛筆で手紙を書き、驚くほどの達筆だった。栗田軍曹がよく自慢げに見せてくれた。軍にだまされ、南方に連れてこられて、慰安所の女にされてしまったらしい。教養もあり美人ときている。まことにお気の毒というよりほかない

金井は、昭和18年、入営し、昭和19年6月、東京陸軍経理学校を卒業し、満州孫呉

 

金井英一郎著『Gパン主計ルソン戦記』文芸春秋、1986年

p55

『野戦貨物廠の次がいよいよ最後の軍慰安所だ。第一、第二とも25人ずつ、50名の慰安婦が、それぞれの個室を持って、兵の慰安業務を行っている。慰安婦はすべて若い朝鮮女性である』。中尉はここで声を落して、『彼女たちは、女子挺身隊とか、女子愛国奉仕隊とかの美名で、朝鮮の村々から集められたらしい。18歳から23歳までの独身女性で、仕事は軍衣の修繕、洗濯等の奉仕であると説明されての強制徴用であるようだ。連れてこられて、仕事の内容を知り動転するが、もはやどうするという自由はない。

 

南方・トラック島

守屋清『回想のラバウル航空隊』

光人社、2002年

 

昭和18年2月

p73~74

(トラック島の)夏島には士官用のレス(レストラン)として、小松(通称パイン)と南華寮の2軒があるということだった。・・・・空瓶を割るのを楽しみに飲んでいるようなしぐさは、彼女たちの荒んだ気持を如実に現わしていた。彼女たちの中には、軍属として御国に奉公するのだと誘われて、純粋な気持で来た所が前線慰安所だったいう者も多かったと聞いた

 

 

井関恒夫著『西ボルネオ住民虐殺事件―検証ポンテアナ事件』不二出版、1987年発行。著者は、長くポンティアナに住む民間人

『蓄妾禁止令』である。日本人が妾を持つことを禁止する軍の指令である。

現在妾を持っている者は妾と別れて、その妾を慰安婦として差し出せとの命令である」「イスラム教では、4人迄の妻帯を許されているこの地方の風習では、現地妻となった女達は、自分は第二夫人であると自認してる者達なのである。その女達を一括して慰安婦とするから差し出せとの命令である、当然色々な反発が生じた」

「又慰安所に入れる女を求める方法として、民政府に命じ、日本人商社に勤めてる未婚の女事務員を調べて、処女でない者は、日本人との関係を自白させて慰安婦にしたケースもあった。現に住友殖産の17歳の女事務員が局部を調べられたといって泣いて帰って来た例もある」

「これらの事実は、若き隊長が如何に自らの権力に溺れ、原住民を蔑視し個人の人権などを全然無視した行為であり、原住民の一部に不安と恨みを買ったかを物語っている。そして慰安所は、軍人用、民政部役人の高等官用・判任官用及一般商社用と分かれて設けられ、一般商社用は、慰安所で女を抱く毎に月日氏名を記入する事になっていた」(p20~22)

 

平和祈念事業特別基金編『平和の礎・軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦4』平和祈念事業特別基金、1994年。「戦争と軍医と衛生兵」朝鮮・大邱医科専門学校を卒業し、昭和18年8月、独立混成第22旅団独立歩兵第66大隊に軍医見習士官として配属。大隊本部は中国・広州市の河南

朝鮮の学校の出身者だと慰安婦に直ぐ分かるのでしょうか。巡察や定期検査の折りなどよく相談を持ち込まれました。奴隷狩同様に連れてこられたとか、いつ帰れるのか、こんな体では故郷に帰れないとか。見習軍医では答えるすべもありません。黙って聞いているだけでした。(p370)

 

吉岡義一著『零の進軍・下』熊本出版文化会館、2015年。著者は、昭和18年12月、中支に派遣され、大陸打通作戦で湖南。

中国・義寧 「××兵長はまた珍しい話を切り出した。『川向こうの最初の民家はピーヤだぞ。俺は遂にピーヤに行ってしまった!』(ピーヤとは現地の中国女性、主に婦人を捕まえて慰安婦にして占領地の民家に拘束し、慰安所として兵士たちの戦力の減退を防ぐために上官の命令で作られていた)と、××兵長は遂に自分の童貞を破ったと残念な表情で語りかけた」

 

 

 

鈴木英次著『サムライの翼』単行本、光人社、1971年。著者は、読売新聞社記者で、昭和17年3月、ビルマ方面特派従軍記者としてビルマなどに赴く。

ビルマ)野戦支局の全員が参加したその席上で、ぼくは、若々しい日本娘をみておどろいた。そこには3月前にきたばかりだという18歳から23歳までの女たちが20数人もいたのである。うそかまことか、真実のほどは、わからなかったが、女たちは南方総軍司令部のタイピスト要員に応募し、つれて来られたのがメイミョの山の中、しかも15軍の将校たちのための“芸者”にさせられた、というのだった。ゲイシャとは名ばかりで、それはあきらかに15軍の料亭兼将校慰安所なのであった」(p392)

 

 

鈴木四郎著『南溟の空』未来社、1989年発行。著者は、同盟通信の航空従軍記者として、昭和17年5月、ビルマ

「派手な衣装をつけ、白粉を厚く塗り、顔、かたちとも整っているものの、松太郎(芸者の一人)はもともと平凡な田舎娘で、他の芸者たちと違って酒を飲み、馬鹿騒ぎすることができない内気な性質だった。どうして、こんな娘がビルマ界隈までやってきたか私には不思議だった。多額の金額に瞞され、甘言に乗り、何も知らずにビルマに連れてこられたのだろう。松太郎が師団の某参謀の夜の勤めを泣き泣き強いられているのを私は聞き知っていた。日本軍のどの戦線にもみられる慰安婦ほどの隠微と悲惨はないものの、片や一方が一般兵を相手にするに対し、萃香園は限られた将佐官級に同じように媚を売ることを求められた」(p280~283)

 

佐賀純一著『戦火の記憶-いま老人たちが重い口を開く』筑摩書房、1994年。聞書き集

ボルネオ)慰安所の親父たちは、いろいろと口でうまいことを言って原住民を集めたんだろう。ある所では女が泣き騒いで暴れているというんで、私が行ってみたら、騙されたといって泣きわめいている

 

軍人恩給連盟浮羽郡支部編『後に続く真の日本人へ―大東亜戦争の想い出』明窓出版、2001年

スマトラ・ブキチンギ)私たちが駐留していたスマトラでも、たしかにブキチンギに慰安所があった。日本人女性10人ほどと韓国女性10人ほどがいた。恥をしのんでいえば、私も一度だけ韓国女性を買ったことがある。その女性がたどたどしい日本語で語ったところでは、『軍人相手の売店の売り子と聞かされてやって来たが、こんな仕事だった。いまはもうあきらめているし、お金になればいい』ということだった。(p200)

 

辻野龍一著『一銭五厘の青春―中支那戦線に従軍した下士官の手記』市田印刷出版、2011年。父の戦争体験手記3冊をもとに書き下ろしたもの。父は、昭和14年1月、現役兵として入営し、同年4月、漢口に上陸。野砲兵第39連隊獣医部に属し、各地を転戦

(昭和19年)気晴らしに焼き栗を持って慰安所の頼子に会いに行く」「この頼子はQ曹長の馴染みの月子と同郷である。一緒に女子挺身隊だと言われ内地から中支まで連れて来られたという。戦地に来てみれば否応なしに慰安婦にさせられたと嘆いている。当陽に着いたのが3年前の20歳の時だという。私が軍曹になったばかりの時である。『俺はあのときが初めて慰安所へ上がった時であまり覚えていない。お前はよく俺を覚えていたな』『そうよ。あの時はまだ1週間目だったのでよく覚えている』と笑う。騙されたと怒って逃げ出しても周りは知らない土地だし敵地なので諦めたという。それからは自暴自棄になり酒ばかり飲む生活が続き、今では胃痙攣が持病だと笑っている」(p283~284)

 

 

権二郎著『オラン・ジュパン―ジャワ、スマトラ・残留日本人を訪ねて』長征社、1995年発行。同書に登場する残留者の一人、ジャワにある日本の製薬メーカーの研究薬草園にいるヨハネス(85歳)。薬剤師だった彼は、戦時中、スマトラ・メダンの軍政部衛生局管轄「メダン病理研究所」で働く。彼の体験談

スマトラには全部で6000人ほどの慰安婦がいたそうです。大部分は現地人で、終戦後すぐに解放されて、それ相当の手みやげを持たせて帰らせたので表面的には問題はありませんでした。日本人女性もいましたが、連合軍に要求される前に、看護婦やなんかに仕立てて病院関係者と一緒にいち早く帰還させていました。残りが朝鮮人慰安婦で450人いました。そのうち300人はすでに朝鮮に帰還していて、あと150人残っていました。

ところが、先にその300人を乗せて帰った船の輸送指揮官だった衛生局の×××さんという人が行方不明のままだというのです。船は確かに朝鮮に入港したのです。おそらく、当時の朝鮮の混乱した状態の中で、これまで日本が犯してきたことへの恨みから、血祭りにあげられたのではないかという話でした。ですから輸送指揮官というのはイヤで……。それに、××に教えられて、朝鮮人慰安婦が収容されていた宿舎をこっそり覗いてみましたが、酒を飲んで胡坐をかいてクダをまいている者、博打を打ってケンカをしている者――まったく酷い状態でした。じつは連合軍が進駐してきたあと一度、これらの者は、連合軍の慰安婦となったのですが『気にいらない』とすぐに送り返されてきたそうです。そういう者たちを150人も連れて行くというだけでもゾッとしました。しかし、元はといえば日本軍に騙されて連れて来られ、処女を失い、青春をメチャクチャにされたわけですから哀れな人たちです」(p110~112)

 

 

 

桜田静務著『一兵卒の戦争回想記』私家版、1998年。著者は、昭和16年1月、入営し、17年、シンガポール陥落後、隣接するブラカンマティ島の海上警備任務にあたるが、同地に開設された日本語教室の教師も務める

昭和17年、マレー・ブラカンマティ「ある日、日語教室に日直将校が姿を現す。彼は広島高等学校出身で、私の後輩である旨を告げる。雑談をしているうちに、慰安所の話をしてくれる。慰安婦の中にはズブの素人がいる。南方に希望の職場を求めてやって来た女性達である。『将兵は命を的に戦っている。女性が貞操を提供するのは当然の事である。……』というわけで、強制的に慰安婦をやらされているものもいるという。彼女達のことを思うと気が重くなって仕方がない。日語の先生がうらやましいと述懐する」(p72)

 

 

 

岡田栄蔵編『噫々万陀礼之里―歩兵第67連隊(ビルマ派遣祭7371部隊)記録文集第三巻』私家版、1966年

ビルママンダレー。「想い出のオンパレード(と題する歩兵砲中隊員の手記)」

「我々の連隊が『インパール』への進撃のため、進軍途中における『マンダレー』は想い出多き街である。王城も街も道路も本当に良い町、そして長閑な町のたたずまいであった」「(無断外出中、その町中の)馬車の中で妙齢の日本婦人に会うことが出来た。よくよく見るとどうもどこかで見た顔である」

「入隊する迄5、6人で私達が(大阪の)島屋町で下宿していた時のことである。我々の下宿の前に喫茶店があって、そこで働いていたウェイトレスがこの人である。或日のことだった。丸髷を結ったこの人が、私達の下宿へやって来て、『永らくお心安く願っておりましたが、これから芸者ガールになって南方へ行って参ります』と挨拶するので、早速無い金をはたいて、ささやかな送別会をして送ってやったのだ」

「王城前で下車して、なおも話しながら歩いて行くと、将校専用の慰安所に連れ込まれてから、だまされたと気がついたが後の祭りだ。彼女は『だまされて連れて来られ、はずかしいことですが、私は慰安婦にされてしまいました。帰ろうにも帰れず、こんな務めをしています』」「『この慰安所には、大阪の女の人が多いし、皆懐かしがるから遊んでいらっしゃいよ』と大いにすすめてくれるので、ついその気になり、裏口からコッソリ入った。見つかったら大変なので、すぐ丹前に着がえ、私の兵服はまるめて床下へ投入れて隠匿し、慰安所にあった陸軍中尉の将校服を吊り、軍刀を立てかけて、さも中尉殿ご遊興中のごとく擬装してすましていた」(p175~176)

 

 

池田佑編『秘録大東亜戦史・改訂縮刷決定版・第3巻・マレービルマ篇』富士書苑、1954

「マレー軍追放(と題する)共同通信社政治部次長××××(執筆の章)」

シンガポール

やまと部隊の経営に属する料理屋に勤めている娘子軍の一人が、店を逃げ出して総軍参謀に実情を直訴した。この女は現地で事務員かタイピストの仕事をするつもりでやまと部隊に応募したものだが、来てみれば料理屋の女中で将校相手にいやなサービスを強要され、こんな約束ではなかったと悲嘆にくれてい時、自分の遠縁の者が総軍参謀として同じシンガポールの地に来ていることを知って、救いを求めたものであった」(p109~110)

 

都築金光編『ビルマ戦線"地獄の霊柩車隊奮戦記"第49師団歩兵第168聯隊手記集』私家版、1975年

(昭和19年2月、補充兵で竜山の第49師団に入隊した一等兵の手記)

女の話では、最初、特志看護婦だった。しかしビルマに入国してから病院に1日も勤務する事もなく、高級将校の相手をさせられ、月日と共にだんだん下に落とされ、今は兵隊相手で1日に数十人の相手をさせられ、今日も百二十人余りの相手をさせられたと、涙を流して夜更けまで時間の経過も忘れて語った。(p99~100)

 

池田正著『隊付衛生兵』近代文芸社、1990年発行。著者は陸軍機歩3部隊の衛生兵で、昭和15年から18年にかけ、中国・内蒙古

慰安所には、性病予防の立場から、医務室の所管でもあって、衛生兵は『公用証』を腕に巻いて出入りした。女たちに聴いてみると、銃後では食糧事情が悪く、軍に行ったら、メシが喰えて、神聖なる仕事があるから、とダマされて来たケースもあった。(p13~15)

 

 

栗原政次著『湖南の戦野』私家版、1976年発行。著者は、昭和19年、2回目の応召で、金沢連隊に従軍、中国・湖南の永安で暗号班長勤務

昭和17年、マレー・ブラカンマティ「ある日、日語教室に日直将校が姿を現す。彼は広島高等学校出身で、私の後輩である旨を告げる。雑談をしているうちに、慰安所の話をしてくれる。慰安婦の中にはズブの素人がいる。南方に希望の職場を求めてやって来た女性達である。『将兵は命を的に戦っている。女性が貞操を提供するのは当然の事である。……』というわけで、強制的に慰安婦をやらされているものもいるという。彼女達のことを思うと気が重くなって仕方がない。日語の先生がうらやましいと述懐する」(p72)

 

 中支方面へ慰安所の商売でくる人は、たいてい九州出身の人であった。日本人の慰安婦1、2名と、朝鮮の娘4、5名連れてきた。これらの娘たちは貧民の娘で、甘言に誘われて、ほとんど徴用のような形で連れてこられたものらしい。当時、こうした事に狩りだされた朝鮮の娘が戦線へ送り出された数は莫大なものであったということである」(p79~80)



肝第四中隊史刊行編集委員会編『南支派遣軍肝第四中隊転戦記』私家版、1991年発行。同書は、中国各地を転戦した独立歩兵第222大隊(肝第3322大隊)第四中隊員の手記集

昭和19年、中国・広東

「(広東市内の)慰安所も覗いてみた。海軍は立派な建物で、日本人は美人ぞろい。それに比べ、陸軍の方は日本人は少ないようだった。海軍にはかなわないと思った。聞くと、看護婦と騙されて連れてこられたのだという」(p141)

 



 

 

 

 

 

高橋顕編『思い出の幾山河―第13師団通信隊譜』私家版、1982年発行。同書は、同隊の記録・手記集。同隊は昭和12年10月から中国各地を転戦

中国。「戦場のウラおもて(と題する手記)」

『国際写真情報』昭和13年6月1日号の説明は―『慰安所―つまり日本兵士をサービスする街頭の接待所』と歯切れが悪い」「軍隊の悩みの一つは性的対策だった。戦闘―占領―慰安所という順序はどこでも見られた。建物を接収し、『慰安婦』は内地からだけでなく、朝鮮からも連れてこられ、現地でも強制的に徴募された」(p302)

 

 

山口時男軍医の1940年8月11日の日記 

中国中部

1940年8月、湖北省董市附近の村に駐屯していた独立山砲兵第二連隊は、「慰安所」の開設を決定し、保長や治安維持会長に「慰安婦」の徴募を「依頼」した。その結果、20数名の若い女性が集められ、性病検査を担当

溝部一人 編『独山二』〔独立山砲兵第二連隊の意〕私家版,1983年,p.58

 

さて、局部の内診となると、ますます恥ずかしがって、なかなか襌子(ズボン)をぬがない。通訳と維持会長が怒鳴りつけてやっとぬがせる。寝台に仰臥位にして触診すると、夢中になって手をひっ掻く。見ると泣いている。部屋を出てからもしばらく泣いていたそうである。
 次の姑娘も同様で、こっちも泣きたいくらいである。みんなもこんな恥ずかしいことは初めての体験であろうし、なにしろ目的が目的なのだから、屈辱感を覚えるのは当然のことであろう。保長や維持会長たちから、村の治安のためと懇々と説得され、泣く泣く来たのであろうか?
 なかには、お金を儲けることができると言われ、応募したものもいるかも知れないが、戦に敗れると惨めなものである。検診している自分も楽しくてやっているのではない。こういう仕事は自分には向かないし、人間性を蹂躙しているという意識が念頭から離れない。

 

 

数人の満州軍国少年の話

 

菅原幸助著『初年兵と従軍慰安婦三一書房、1997年発行。

筆者(菅原)は新聞記者現役のころ」「関東地方のある市長さんと親しく軍隊時代のことを語り合ったことがある。(市長は語る)『私は北支と中支を歩きました。陸軍中尉でしたよ』・・・『後方部隊でした。戦闘が終って、村が焼け野原のようになる。村人が畑や山小屋にかくれている。その宣撫工作をやった。占領した村にはたくさんの娘や主婦がいた。その女たちを捕らえ、軍の慰安所へ送り込むのが主な仕事でね』『可哀相な気もしたが、まず美人で、よさそうな娘や主婦を将校が2、3日泊めて“慰安”する。その後、前線部隊の慰安所に送り込む。いい仕事でしたよ』

 

 

 

筒井修・外編『最後の騎兵隊』私家版、1984年発行。同書は、騎兵第55聯隊の記録・手記集。同聯隊は、昭和16年11月、坂出を出発し、ビルマで転戦する。昭和17年、ビルマ・マダヤ。「回想記(と題する手記)」

「(昭和17年5月)マンダレー北方約30粁のマダヤに引き返し、部隊主力は駐留する事になりました」「女は別としてビルマ人も帰って来て、物資の収集等、軍との協力態勢に入りました」「衣食が足りれば次に来るものは慰安婦の問題です。初めは現地人で何とかならないかという事で」「女は未だ余り帰ってこないのですが、どこかに潜んでいるはずで、生活にも困っているのではないかと思われるのですが、漸く職業婦人らしい女を4、5人見つけてくるのに10日もかかりましたか?然しこの人々は女に飢えているはずの兵達にもあまり評判はよくありませんでした。

1か月も経っての事ですか?師団が世話をしてくれた慰安婦は処女だという事で、師団長の巡視までは手付かずに囲っておけというような事で、涎を流しながら待った全員の女房となり、カラダン作戦の始まるまで、帰還要員部隊と行をともにしました」(p222~223)

 

 

 

 

 

1944年4月

著者は英国人。植物学の権威

E.J.H.コーナー『思い出の昭南博物館 占領下のシンガポールと徳川候』

p163

人夫が女であり、若くてきれいだと、カタンの近くにある兵営に送られ、兵隊たちの慰みものになった。通行人は、彼女らがジャワ語で「助けて」と悲鳴をあげるのを耳にし、胸をしめつけられた。

 

 

昭和17年10月、陸軍報道部企画による主要雑誌編集長らによる南方占領地視察に参加

 

黒田秀俊著『もの言えぬ時代』図書出版社、1986年

p156-157

街はずれに近いマンガライというところには、白人の女たちを収容している将校専用の慰安所も設けられているという。敵性国の婦人たちで、生活の途に窮したものは、強制的にここへ入れられて働かされるのだそうである。『なかなかきれいなのもいますよ。もっとも、そういうのはたいてい参謀の奴らがひとり占めしていますがね』と軍医はいった

 





 

 

 

反日種族主義批判「イ・ヨンフンによって歪曲される」慰安婦のイメージ 1「楯師団の慰安婦、文玉珠」「強要と自発的」

 

 

イ・ヨンフンの講義『楯師団の慰安婦、文玉珠」』という動画を見た。

これである。https://www.youtube.com/watch?v=3siNUCt4pXg

 

 


11. 楯師団の慰安婦、文玉珠

 

文玉珠さんの『ビルマ戦線楯師団の「慰安婦」だった私』を題材に慰安婦の生活や待遇を説明しているのだが、いろいろな部分を歪曲し、強引な結論を述べている。

 

 

酷いものをつくるものだ。

読んでいない人のために説明しようと思う。

 

 

 

          1、友達に比べて文さんだけが、大金を持っていた

           ことを無視するイ・ヨンフン

 

イ・ヨンフンは文玉珠さんが大金を稼いだことを述べている。

 

しかし、第一に「(経営者の)マツモトはお金をくれなかったこと」

第二に、人気者だった文玉珠さんは、チップをためてお金を持っていたが、他の慰安婦にさせられた女性たちがお金を持っていなかったこと・・・は無視している。

 

文玉珠さんによれば、

「私の手元には少しづつもらったチップが貯まって大きな金額になった。友達に比べて私だけが、大金を持っているのは、都合が悪い」

という。

 

この部分である。

 

 

 

 

この部分は、なぜ文玉珠さんが貯金をしたのか?その理由と通帳を造った経過を述べているのである。文玉珠さんによると、宴会に出かけてチップを貯めると金額が大きくなったが、友達はそんな大金を持っていない。そこで兵士の給料を野戦郵便局に貯金していることを知っていた文さんは、知り合いの軍人に頼んでハンコも作ってもらい、貯金通帳を造ったのである。

 

 

 

 

こうして、都合の悪い部分を無視したあげく結論はこうだ。

 

 

 

「友達に比べて私だけが、大金を持っているのは、都合が悪い」という文玉珠さん

言うまでもなく友達は「大金を持っていない」のである。

 

それを解説するのに

普通の慰安婦と同様にお金を稼いで貯蓄していた」というイ・ヨンフン

誰と同様だって?

やれやれだ。

 

(イ・ヨンフンは「慰安婦はみな商売で、金儲けしていた」という結論にしたいために、こうした歪曲を行っているのであろう)(後に文さんの同僚だったヒトミさんも通帳を造っているが、やはりチップを貯めたものだろう。金額は不明である)

 

 

        2、殴られ、蹴られた慰安婦の話を無視するイ・ヨンフン

 

他にも無視している部分がある。例えばコレだ。

 

騙されて連れてこられた慰安所で、逃げられない、と達観して貯金を貯めることに精を出す文玉珠さんの周りには、貞操を奪われ、複数の日本人兵士の相手をすることを苦痛に思っている女性もいた。

 

文さんの表現ではこうである。

 

望んで、性の相手をするわけではない。

 

 

イ・ヨンフン自身が述べているように、騙されて連れてこられて泣きながら抗議したのだ。

慰安所でも、ささやかな抵抗し、殴られ、蹴られる。

 

ところが殴られ、蹴られた慰安婦の話は、イ・ヨンフンにとっては都合が悪いようだ。

 

完全に無視している。

 

 

             3、自殺未遂の話

 

アキャブに行く途中のアケミさんの病死と友達の自殺については述べているが、自殺と言えば慰安所の生活がどのようなものだったかが、よく分かるこの部分は無視している。

 

 

 

解説は不要だろう。

「きついきつい」と言っていた友達が自殺未遂

たちの悪い嫌な兵隊もいて、「朝鮮ピー」と呼んだり、バカにしたり、サックを使わなかったり。

「八つ当たりする人が多かった」

 

こんなものに、騙して連れていくなんて、虐待としか言いようがないだろう。

 

アケミさんの病死の前に、友人が川に身を投げたこと(p81)をイ・ヨンフンは一応は述べているのだが、この本には慰安婦の生活がよく分かる部分として、他にも爆弾で左足を負傷したり(p95)、文玉珠さんが酔っぱらった兵隊にののしられ、暴行を受け、左腕を骨折したことなど(p99-100)など、タフな文玉珠さんでも苦しんだ様子が書かれている。イヨンフンは軍法会議の話は長々と語っているのに(23:50~25:50)、慰安婦が暴行を受けた話は、無視しているのだ。戦後、文さんは後遺症に悩まされ、不眠を訴え、夜通し泣き明かすこともあったという(p155)。こうした事もイ・ヨンフンの講義には出てこない。このようにトリミングを行いながら「慰安婦と兵士は最前線で苦楽を共にする仲でした」と黒田勝弘秦郁彦朴裕河ラインが宣伝してきた意見を述べている。

 

しかしそもそも、銃弾が飛び交う最前線に、婦女子を連れていくことが、どう正当化できるだろうか?

 

最前線であるアキャブには三か月間トラックに揺られ、 歩いて行ったという。その過程で、文さんの友人の一人は身を投げ、一人は肺結核で死んだ(p79-89)。その自殺した友人や肺結核のアケミさんは、自分でアキャブに行きます、と言ったのだろうか?そうではない。文さんの表現では「それは命令だった」のである。誰の?軍の命令だ(p78-79)。軍に命じられたので、病身のアケミさんもアキャブまで行進しなければならず、病気は進行し、死んだのである。

こんな風に、騙され、殴られ、虐待され、辛さに病死、あるいは自殺までした娘たちは、なぜこの仕事を辞めなかったのか?辞められなかったのか?

 

 それを考えるのが、人類に寄与する歴史学なのである。

イヨンフンには歴史家を名乗る資格などない。

 

 

 4、騙されて泣きながら抗議したものは「意志によるもの」とし、自分の意志で決めたものは「強要した」という。

 

 

前回、韓国の女性たちが騙されて連れてこられ、泣いて抗議したことを書いた。

 

それはイ・ヨンフン自身も述べている。

 

 

 

 

 

 

 

詐欺による徴集は実のところ、米軍資料や軍事裁判資料、当時を回想する日本人の著作によって裏付けられている。

 

 

 

泣いた女性も多い。例えば、自身も慰安婦として戦地に向かった菊丸さんは、

「横浜を出て神戸に寄って、それから韓国の釜山で韓国人の女性もかなり乗船しました。彼女たちは私たちと違って志願ではなかったようで、チョゴリを着て乗り込んできたのですが、「アイゴ、アイゴ」と泣くのがなんとも悲しくて……私たちもつられて泣き出しましたよ。」・・・と回想している。(平塚柾緒『知られざる証言者たちー兵士の告白』 p339ーp349)

 

自ら、「慰安婦になること」を志願したわけではなく、「看護婦の仕事」とか「工場の仕事」とかいう名目でだまして連れて行ったのである。

 

ところが、イ・ヨンフンによるとこれは自発的らしい。

 

こういう。

 

 

 

騙されて異国に連れていかれ、泣いて抗議したが、これは「彼女たちの意志と選択によるものだった」という。

この部分は、帰国しようとした文玉珠さんが警告のような夢を見て、慰安所に引き返すシーンを解釈しているのだが、ここで分かるのは「慰安婦としての職業生活が彼女たちの意志と選択」だったことではなく、ただ単に「引き返したのは意志と選択よるもの」というだけである。慰安婦の生活が「詐欺によって騙されてはじまったこと」はすでに結論ができているではないか?

 

恐ろしい解釈もあったものだが、他にも奇怪な解釈が加えられている。

 

 

なんと、文玉珠さんの家が「妓生という職業」を「強要した」というのだ。

 

 

しかし、そんな事が文玉珠さんの回想のどこにあるというのか?

 

ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私 』で文さんはこう語っている。

歌うことが大好きな文玉珠さんにとって「妓生になる」という事は、「とびきりのアイデア」だったのである。

 

時代と状況の制約はあっても、明らかに自分の意志で決定している。

 

イ・ヨンフンは、書いてあることを完全に無視している。

 

そして、「騙されて連れて行かれた」ものを「彼女たちの意志と選択によるものだった」とし、「自分の意志で決めたもの」を「強要した」とする。

 

まるで逆というしかない。

 

「強制」とはどういうものか?理解できないのだろうか?

 

彼らは資料から事実を読み取らない。悲惨な部分は無視し、歪曲し、頭の中で造る自分の解釈を優先している。

 

だから、こんなおかしな慰安婦論になってしまうのである。

 

 

『反日種族主義』批判① 「志願兵は自発的か?」

反日種族主義』批判「志願兵は自発的か?」

1、日本における「志願兵強制」の歴史研究

志願兵について、日本では1973年11月の季刊『現代史』第3号に金基鳳の回想記「私と1945年8月15日」が発表された。「・・・志願兵の資格を持っていながら「志願」しないのは認識不足な非国民か「不逞のやから」の扇動の影響と決めつけていた」という。


この「志願しない者は非国民」というフレーズは、総督府の機関誌である『毎日新報』が1943年11月19日に書いているフレーズである。

 

f:id:horikekun:20200318015305j:plain

      樋口雄一『皇軍兵士にされた朝鮮人』p82より抜粋


次号季刊『現代史』第4号は「ある朝鮮人元兵士の談話」が掲載された。これには様々な方面からかかる圧力が書かれていた。

大分県で)「(中学)在学中に協和会支部の会長、町長、学校長、警察、特高、町会議員、部落会長、元親方の南さんとか、おえら方が家に出入りしてこぞって志願をすすめるわけですよ。・・・(略)・・・そういう雰囲気がだんだん強くなってきて、結局それに押し切られたというか、説き伏せられたという形ですね」

季刊『現代史』第6号(1975年)は「朝鮮の志願兵制はじまる」というタイトルで資料を集めている。

こうした証言と資料収集を受けて論文として、君島和彦『朝鮮における戦争動員体制の展開過程』(『日本ファシズムと東アジア』(1977)所収)や宮田節子「朝鮮における志願兵制度の展開とその意義」(『朝鮮歴史論集下巻』(1979)所収)が書かれている。とりたてて「強制か?自発的か?」というテーマだけを追及した論文ではないが、当初から「警察を中心とした募集時の強制勧誘」(君島)「権力の側からの徹底的強制」(宮田)が、それぞれ資料を元に言及されている。宮田が強制の根拠史料としたのは、「特高月報」に記録される「志願兵制度に対する朝鮮人の動向」や「帝国議会貴族院委員会」(1943年2月26日)等である。

最近、金庾毘(キム・ユビ)が書いた「戦時期朝鮮における朝鮮人陸軍特別志願兵ー日本軍内における進級と差別問題」(『朝鮮史研究会論文集 (57) 2019-10』所収)も特に「強制」をテーマとした論文ではないが、 p.227の脚注で、鄭安基(チョンアンギ)とブランドン・パーマーの論文を批判しているので見ておこう。

チョンアンギは『反日種族主義』で、「特別志願兵 彼らは誰なのか!」を書いた人である。

該当部分をそのまま掲載する。

以下、引用

(5)ブランドン・パーマー著、塩谷紘訳『検証日本統治下朝鮮の戦時動員1937-1945 』草思社、2014年、チョン・アンギ「・・・」『精神文化研究』41(2)、韓国学中央研究院、2018年6月(韓国語)。

しかしこれらの研究は、その論拠や資料分析などに多少問題がある研究である。例えばブランドンの研究は、李昇燁が指摘するように(李昇燁 「ブランドン・パーマー(塩谷紘訳)『検証日本統治下朝鮮の戦時動員』(草思社、2014年)7」佛教大学歴史学部論集第7号、2017年3月)、史料の内容の恣意的な解釈、史料の理解不足、そして立証性等に問題がある研究である。

またチョンの研究は、朝鮮人志願兵制度は「朝鮮人社会の積極的動員協力がなければ決して成立できない、自発的動員を特徴」とし、志願兵が「志願の可否はやっぱり志願者個人の赤裸々な欲望を反映した多様な選択肢の中の一つ」であり、志願兵は強制させられたのではなく、その「欲望」により自発的に志願した存在だと主張している。

またチョンは小磯の「回顧」を引用し、「警察官の勧誘と説得が激しかった」としながらも「志願を強制する具体的な手段が欠如」していると主張しているが、彼は官憲の強制によって志願させられた志願兵の証言を無視している他、植民地朝鮮における総督府の大衆統制組織と言われる国民精神総動員朝鮮連盟(のち国民総力朝鮮連盟)と末端組織の愛国班による志願の割り当てや志願の慫慂を視野に入れていない。また総督府機関紙と言われる『毎日新(申)報』などの引用に当たっては、史料批判のないまま引用している。志願者の一部の動機が自発的な志願であったとしても、果たして志願を簡単に「欲望」により「志願」した自発的存在だと定義できるかは疑問である。

 

引用終

 

*李昇燁の「ブランドン・パーマー(塩谷紘訳)『検証日本統治下朝鮮の戦時動員』(草思社、2014年)7」はネットで読むことができる。

https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/RO/0007/RO00070L097.pdf

 

 

 

              2、史料 

 

 志願兵制度に圧迫や強制があったという史料を読む

 

 

朝鮮・陸軍特別志願兵

年度

志願者数

入所者数

1938

2,946

406

1939

12,348

613

1940

84,443

3,060

1941

144,743

3,208

1942

254,273

4,077

1943

303,294

6,300

内務省管理局資料 1944

 

①公文書から読み取る・・・情報を得ることのできる立場の人たちによる「圧力」「強制」の言及

 

a)

史料名:「陸軍省業務日誌摘録」1941年4月16日金原節三 (前篇 その3のイ)

陸軍省局長会報での武藤章軍務局長と田中隆吉兵務局長の対話

 

武藤章軍務局長 「(略) 朝鮮の徴兵制度。及び台湾は志願兵制度をしく要望高し。これは政治上問題あるをもって検討いたし度。」

田中隆吉兵務局長 「朝鮮現在の志願兵制度はその実質を微するに必ずしも真実志願せるものは少なく、強圧により止むを得ず志願せりというもの多し。従って徴兵制の施行は多いに考慮を要す。」

「朝鮮現在の志願兵制度はその実質を微するに必ずしも真実志願せるものは少なく、強圧により止むを得ず志願せりというもの多し」・・・これを陸軍省のトップクラスが語っていることの意味は大きい。

一般人は、戦時下の出来ごとについて統制された情報以外はほとんど知らないが、陸軍省のトップクラスにもなれば統制されていない様々な情報を知ることができたからだ。

 

金原節三プロフィール   1901~1976

1926陸軍軍医学校卒業

以後1943まで陸軍省医務局医事課員として勤務、課長、大佐となる

1943,9 近衛第2師団軍医部長としてスマトラへ、敗戦時はインドシナ

敗戦後、陸上自衛隊

陸軍省業務日誌摘録』は、35冊からなり、前半が医務局医事課員としての記録であり、後半が軍医部長としての記録である。

原本は陸上自衛隊衛生学校蔵で一部はまだ公開されていない。

 

f:id:horikekun:20200318015645j:plain

 

この資料は、慰安婦問題では知られていたが(『季刊戦争責任研究創刊号』の吉見論文に初出)、志願兵関係の研究論文では使われたことはない。ネットでは「河野談話を守る会のブログ」に言及されている。

 

b)

議会における答弁 

貴族院 予算委員第三分科会(内務省、文部省、厚生省)昭和18年02月26日速記録

 

水野錬太郎議員の質問に答えて

 

政府委員田中武雄 「・・・略・・・それから次は創氏の問題、志願兵問題等に付きまして、官邊の強制と云ふやうなことに関してでございまするが、是は私共も仰せの如く同じやうなことを耳に致して居りましたので、諮らずも自分がさう云ったやうなことに対しまして責任の地位に立ちましたので、さう云ったことに対しまして間違って居ることがあるならば是正をして参りたいと考へまして、色々事実の真相を調べて見たのであります、必ずしも絶対にさう云ふことがなかったとは申し上げ兼ねまするのでありまして、一部遺憾な事例もあるやうであります、併し将来は左様なことのないやうに、適正に運営して参りたいと斯様に存じて居ります、特に志願兵制度等に付きましては、総督の言明でありまして、新聞に何十萬志願者があったと云ふやうなことを余りに書くことは、一面に於いて由なき宣伝のやうにも見えるし、又それが為に道の競争と云ふやうな心理を誘発する虞れもあるから、何倍にならうがそんなことは差し支えないから、一切新聞に書かすなと云ふことを厳命されまして、確か今年は何倍あったと云ふやうなことは新聞には一切書かさなかったと記憶を致して居ります。左様な状況でありまするので、将来とも一層留意を致したいと思ひます、次は一つ速記を止めて戴きたい」

 

主査:男爵山川建 「速記を止めて」

 

創氏改名や志願兵が官僚の強制であることを「私共も仰せの如く同じやうなことを耳に致して居りました」「一部遺憾な事例もあるやうであります」と政府委員は答えている。

政府委員は時の政府の代表である。速記を止めて何を話したかは分からないが、表に出てはまずい情報があったことは確かである。

 

 

f:id:horikekun:20200318015524j:plain

 貴族院 予算委員第三分科会(内務省、文部省、厚生省)昭和18年02月26日速記録

 

 c)


  内務省警務局   特高月報 昭和十六年十二月 朝鮮人運動の状況 

 

四、志願兵制度に対する朝鮮人の動向
・・・(略)・・・
然れども翻つて斯る現象を裏面より洞察せば志願兵の胸底には自発的に志願せんとするがごときは稀にして強制的に勧誘せらるるが為めやむを得ず応募せるものなりとの意識を有するものその大部分を占め珠に有識層に於いてはむしろこれを忌避し居るが如き状況すら見受けられるは誠に寒心に堪へざるものあり。今後彼等の動静に関しては尚一層注意の要あると共に一段の指導啓蒙を為すことこそ肝要なり。

 

「自発的に志願せんとするがごときは稀にして強制的に勧誘せらるるが為めやむを得ず応募せるものなりとの意識を有するものその大部分を占め」「有識層に於いてはむしろこれを忌避」・・・というのが実情だったようだ。

 

 

 

 d)

内務省警務局

  朝鮮人運動の状況<10月分>1943年

      四、陸軍特別志願兵臨時採用規則公布に伴う在住朝鮮人学生の動向
十月二十日陸軍省令第四八号を持って陸軍特別志願兵臨時採用規則公布即日施行となり彼等朝鮮人学徒の向ふべき方向明確となりたるが彼等の動向は事前と対比し何等良好なる傾向傾向認められず、相当甚大なる衝撃を与えたるものの如く表面冷静を持しつつも内心の動揺極めて深刻なるものあるを観取せられたり。
即ち彼等は自己運命の開拓に焦慮し志願忌避の念慮より帰鮮又は休学する者多数に及び登校を継続するもの減少しつつありたり。
而して学校当局、朝鮮奨学会等に於いては国家の要請に応へしむべく関係当局と緊密なる連携を保持し志願推奨に努めたる結果11月20日締め切り日における志願状況左記のごとき状況となり一応相当の好果を収めたるものあるも今後不志願者並に一般朝鮮人学生の指導取締上相当注意を要するものあるを認められたり。

 

    記
志願状況
在籍学生別    適格者    志願者    不志願者
帰鮮学生     1442     1315     127
内地在留学生   1388     712      996
計        2830     2040     796 
(『在日朝鮮人関係資料集成 第五巻』p259-260)

 

日本に来ている朝鮮人について「志願忌避の念慮より帰鮮又は休学する者多数に及び登校を継続するもの減少しつつありたり」という。

つまり、志願を忌避して帰鮮し、休学するもの多数で、登校するものは減少しつつある・・・・という訳だ。その後、学校当局、朝鮮奨学会に志願推奨させ(=他史料と考え合わせると圧迫・圧力を加え)結果かなりの数の人間が志願者となったのである。

 

*学徒志願の実態については姜徳相朝鮮人学徒出陣』がある

 

 

 

            

 ②個別の「強制」の言及、証言


a)

私が帰朝中、村でも三十人ばかりの志願兵応募者の割当を受けているが、それだけの人数がどうしても出来ないし、それでは村の名誉にも拘はるから、お前は三十五歳以上で不合格になることは判っているが名前だけ是非貸してくれと頼まれたので貸したが、その後街頭へ出て見るとなるほど募集に苦心している様な宣伝ビラが沢山貼られているのを見受けた。 さような事は独り私だけではなく、他にもさような事が幾多あった様に聞いている。未だ半島人は心から応募しやうとするものは少ない様だ。 

                            滋賀県 傭人  林 秀雄


b)   

我々は志願兵制度に応募する気持にはなれない。何となれば現在の各層を見るに悉く

内鮮人間に差別待遇があり、甚しきは内地婦女子迄が鮮人を軽蔑して居る現状である。

これではとても軍人となり国家の為に生命を賭すると云ふ気持には到底なり得ない。

最近志願兵募集に当り各地共青年に対し半強制的に応募を從慂して居るが、之が皆

逆効果を来たして居る様だ。応募者の地方頒布状況を見ても都会地の青年よりも田

舎の淳朴な青年が多く又中等学校卒業者が少ないのを見ても知識階級は之を喜ばな 

い傾向にあることが窺はれる」 
      金融組合書記某

 

 c)

 

朝鮮では男兄弟二、三人あれば必ず一人は兵隊を志願しなければ非国民のように云は

れるので、止むなく三十歳前の人は志願せねばならないと云ふ事である。先日も父

から手紙が来て『お前は帰国すると兵隊を志願しなければならないから帰つて来

ないように』と云ふ意味の事を言つて来たので自分も暫く帰らない考へだ
       岩手県 古物商 李四用

 

 

 

d)

私は志願兵採用制度に大きな矛盾があるので常に反対の意見を持て居る。現在応募の動機は殆ど警察の強制的募集に依るもので、在営中内地の見学旅行、除隊後半島に於ける革新的中堅幹部として青年の指導者たる地位を選られる等の好条件に釣られ功利的に応募した様な実情で志願兵としての真の精神に反するもの許りである。又総督府は必要数丈は容易に得られるのであるが各道に責任数を割当て居り後に之を講評するので警察は勢ひ強制的に募集する様になり茲に無理が生じ入隊しても挨拶も出来ない様なものが入り、内地人軍人から馬鹿にされ延ては帝国軍人の内容と素質を低下させる様なことにもなる。又一面知識階級者は志願を忌避すると云ふ傾向に流れて居り少し金持の所では無理しても子供に上級学校に入学させると云ふ傾向があり思想的に面白くないのである、そこで私は彼等を真に皇民化するには義務教育の徹底と徴兵令の施行を要望するのである                  朝鮮人将校某

  (「特高月報」 昭和十六年十二月 朝鮮人運動の状況)



e)

志願兵が三千人に対し二十五万あるというが之は強制であって余り好感をもっていないようである。徴兵制は一般大衆には無理で余り関心を持たない。又農村の子弟を徴兵して厳格な訓練をしても之に耐えられるるや否疑問である。要は義務教育を徹底してから実施すべきである。      渋谷区代々木原町 無電局員 某


    (「特高月報」 昭和十七 第四 思想運動の状況)




以下は軍属の動員だが、「志願」の名で、圧力・強制がなされていた証言である

   朝鮮半島には国民精神総動員朝鮮連盟(愛国班)が網の目のように張り巡らされ、同化政策

   推進し、徴用や志願兵に圧力をかけていた

・・・(略)・・・志願する者は、きわめてごくわずかであったようです。その結果、各道に割り当て制を実施し、各府、巴、面長(市町村長)ならびに警察、駐在所より勧誘の結果自己の意志からではなく、周囲の状況からやむなく応募したという実情を、当時その人たちから聞かされておりました。当時の府、巴、面長や警察の勧告がたんなる勧告にすぎざるものでなかったことは想像に難くありません。志願という形式をとっておりますものの、その実は強制徴用であったことは否めません。・・・(略)・・・
   福田恒夫元陸軍大尉、釜山教育小隊長、シンガポール俘虜収容所員 (藤崎康夫天皇制に忠誠誓わされ、祖国追われた朝鮮人戦犯」「潮」1972年8月号 p208)

 

 

李義吉家具屋の次男として生まれた私は26歳のとき、町内会の人に俘虜監視員になるよう推薦されました。当時、町内会に逆らうということは警察に反逆することと同じと見なされ、どうしようもなかったのです (『潮』1972年8月号p214) 

 

 

金喆洙役所の人の誘いにうっかりのって日本の俘虜監視傭員の募集に応じたのが、私の一生が大きく狂うもとになりました。徴用で、2年間だけ軍属になればいいのだからと、巧妙に説得され、農業を投げうって故郷を離れたのです (『潮』1972年8月号 p215-216)


    

丁永玉ひとり息子だったので、父母は私が監視傭員になることは反対でした。ところが、役人が毎日のように家に来て、息子を出さなければ配給をストップすると脅かしたので、両親はしかたなく承諾したのです (『潮』1972年8月号 p217)

          3 結論

 

志願兵には、自発的というべきものが皆無ではない。一部は自分の考えで志願したものと考えられる。しかし多くは割り当て(ノルマ)が各道、各面に課せられていた中で、圧迫、圧力により逃げられない状況で送り出されたものである。チョン・アンギの研究は、朝鮮人志願兵制度は「朝鮮人社会の積極的動員協力がなければ決して成立できない」というが、それはごく部分的な事実である。その朝鮮人社会の一部が日本軍の戦争意志を実現するために編成されていたからである。朝鮮半島では網の目のように張り巡らされた国民精神総動員朝鮮連盟(国民総力朝鮮連盟)・愛国班が、日本内地では協和会が学校や他各機関とともに圧力をかけたのである。国策によって圧力がかけたのだとしたら、これを「自発的動員を特徴」と結論づけるのは過度の単純化というより、ただのデマである。「強圧により止むを得ず志願せりというもの多し」なのである。





    備考) 張り巡らされた国民精神総動員朝鮮連盟(国民総力朝鮮連盟)と末端の愛国班


『施政三十年史』によれば1939年6月末の時点で愛国班員は460万人余であったという。外村大は「5人組に似た」制度としているが、朝鮮連盟が作成した『非常時国民生活改善基準』を基にした相互監視システムとも言えるだろう。朝鮮連盟の下部組織には「連盟推進隊」もあったが、これは「中堅青年訓練所や陸軍兵特別志願者訓練所の修了者にして、入営の上帰休除隊し朝鮮連盟の講習を受けたもの及び朝鮮連盟において適当と認めたもの」によって構成されていた

君島和彦『朝鮮における戦争動員体制の展開過程』1977)。



 

f:id:horikekun:20200318015921j:plain

          『朝鮮人軍夫の沖縄日記』 岩橋春美訳

             慰安婦の徴集に使われたという話

 

 

f:id:horikekun:20200318020025j:plain
         朝鮮人強制連行』外村大

  愛国班は隣組に似たシズテムで、在朝日本人社会を中心に張り巡らされていた。

      

 

f:id:horikekun:20200318020138j:plain



 

       「朝鮮人志願兵・徴兵の梗概/概説 第六章」という公文書

各道において、「徴兵義務 遂行」に協力し、国民総力朝鮮連盟も大々的な運動をするという。