慰安婦はどのように集められたか?多くは欺罔・詐欺

 

 

徴集方法=多くが騙された(下線=欺罔・就業詐欺事例)

 

 

 

 

極東国際軍事裁判東京裁判)の判決 

中国の桂林

 

極東国際軍事裁判速記録』10巻・雄松堂書店,1968年,p.186

 

桂林を占領している間、日本軍は強姦と掠奪のようなあらゆる種類の残虐行為を犯した。工場を設立するという口実で、かれらは女工を募集した。こうして募集された婦女子に、日本軍隊のために醜業を強制した。

第五十九師団(済南駐屯)の伍長・榎本正代の証言

中国中部の山東

 

秦郁彦慰安婦戦場の性』 新潮社,1999年,p.382)

一九四一年のある日、国防婦人会による〈大陸慰問団〉という日本人女性二百人がやってきた……(慰問品を届け)カッポウ着姿も軽やかに、部隊の炊事手伝いなどをして帰るのだといわれたが……皇軍相手の売春婦にさせられた目的はちがったけど、こんなに遠くに来てしまったからには仕方ないわが彼女らのよくこぼすグチであった。将校クラブにも、九州女学校を出たばかりで、事務員の募集に応じたら慰安婦にさせられたと泣く女性がいた

神奈川新聞社編集局報道部編『満州楽土に消ゆー憲兵になった少年』神奈川新聞社、2005年

p202

こっちは義勇軍に入った時から、まともに女性と接する機会なんて皆無だったでしょう。ドキドキした。早く布団に入りなよ、と荒っぽい口調で言われてね。それでいて「吉林の軍需工場で働いていたら、突然ここに連れてこられた」なんて、僕を責めるんだ。自殺した娘もいるのよって言われて、気分が滅入っちゃって』。日本人の相場の4分の1が朝鮮人、さらにその半額が中国人の“値段”だったと、菅原さんは記憶している。

関東軍兵士
中国東北部黒竜江省
長尾和郎『関東軍軍隊日記 - 一兵士の生と死と』経済往来社,1968年

 

これらの朝鮮女性は従軍看護婦募集」の体裁のいい広告につられてかき集められたため、施設で営業するとは思ってもいなかったという。それが満州各地に送りこまれて、いわば兵士達の排泄処理の道具に身を落とす運命になった。わたしは甘い感傷家であったかもしれないが、戦争に挑む人間という動物の排泄処理には、心底から幻滅を覚えた。……

 
 

第七三三部隊工兵一等兵の記録、
中国東北部吉林省・琿春

『私たちと戦争〈2〉戦争体験文集』タイムス,1977年,p.32
島本重三 軍「慰安所

 

兵隊専用のピー屋(慰安所)は琿春の町に五軒散在していた。一軒の店に十人ほどの女がいた。『兵隊サン、男ニナリナサイ』。朝鮮の女たちは道ばたに出て兵隊を呼びこんでいた。まだ幼い顔の女もまじっていた。

 兵隊の慰問のために働くのは立派なことで、その上に金をもうけられると誘われ、遠い所までつれてこられた。気がついたときは帰るにも帰れず彼女らは飢えた兵隊の餌食として躯(からだ)を投げださねばならなかった。

 

 

古山高麗雄『身世打鈴』中央公論社、1980年

その頃私はすでに朝鮮女性が挺身隊の名で徴集され、慰安婦として前線に送られるからくりを知っていた。それは私が最後に新義州を離れたのが昭和17年で、その頃には平安北道でも、強制徴用が始まっていたからだろう。そういう徴用があることを私に教えてくれたのは、私の家ー新義州病院に勤めていた桂国太郎であった。桂国太郎の本姓は朴である」「桂国太郎を誘って毎晩飲みに行った。前もって、窓の鍵をはずしておいて、明け方、その窓から家に入った。桂とそういうことをしながら、私は、女子挺身隊の話を聞いたのだろう。ビルマのネーパン村に彼女たちがやって来ても、私が彼女たちを求めなかったのは、朝鮮人狩りに対する反発もあってのことだったかも知れない。そういう女たちを争って抱く気にはなれなかった。

軍医の記録
中国中部・湖北省武漢
長沢健一『漢口慰安所』図書出版社,1983年

若い女は尻を引っこめ、二つ折りになったような格好で後ずさりしている」「私は二階回りに手を離させ、カーテンの内側に誘って事情を聞いた。女は昨日午後、内地から来たばかりで、今日検査を受け、あしたから店に出すことになっているが、検査を受けないと駄々をこねて困っているという。私は女も呼び入れさせた。赤茶けた髪、黒い顔、畑からそのまま連れてきたような女は、なまりの強い言葉で泣きじゃくりながら、私は慰安所というところで兵隊さんを慰めてあげるのだと聞いてきたのに、こんなところで、こんなことをさせられるとは知らなかった。帰りたい、帰らせてくれといい、またせき上げて泣く

伊藤桂一慰安婦と兵隊」

金一勉編著『戦争と人間の記録・軍隊慰安婦現代史出版会、1977年

戦火が拡大し、長引き、兵力の動員が際限もなく続くにつれて、慰安婦も、とうてい、志願者や経験豊富の玄人ばかりを集めるわけにいかなくなった。数が足りないのである。ことに、慰安所というものが、兵站なみに必要視されてくると、どの部隊でもその設置を考える。そのため、慰安婦を外地へ連れて来て間に合わせるため、ついに手段を選ばぬ業者が出てくることになったのである。つまり、女をだまして連れてくるわけである。料亭や酒場で、水商売をやっている女を好条件で釣り、うまく話に乗せる。ところが目的地に着くと、慰安婦としての仕事が待っている。女が、死ぬ気で抵抗すれば抵抗できないこともなかったにしろ、おどされたり、因果をふくめられたり慰安婦の使命感?まで説かれてみると、いまさら帰国したからといって別にいい暮らしが待っているわけではないし、ずるずるに、慰安婦の仕事に入ってゆくことになったのである」「日本の軍隊に、最大の貢献をしてくれたのは、質量ともに朝鮮人慰安婦であるだろう。戦場慰安婦、といえば、そのイメージは、朝鮮人慰安婦に尽きる、といえるかもしれない。朝鮮人にしても、強制されて出て来る者も多かったし、また、何をやっても内地の女よりは秀れているのだ、ということを認めさせるために、あえてがんばっていた女たちだっている。複雑な心情がそこにある

作家の伊藤桂一
中国
伊藤桂一『兵隊たちの陸軍史 - 兵営と戦場生活』番町書房,1969年,p.212

 

 兵隊と、なんらかの意味で接触する女性は、慰安婦のほかには、中国民衆(つまりその土地の住民)、在留邦人、慰問団、それに看護婦くらいなものだろう。このうち、慰安婦がいちばん兵隊の役に立ってくれていることは事実だが、慰安婦も多くは、欺(だま)されて連れて来られたのである

中国

伊藤桂一『戦旅の手帳』光人社,1986年

騙すのは、看護婦にする、というのと、食堂の給仕にする、というのとつまり肉体的供与を条件とせず連れて行って、現場に着いたら因果を含めたものである。逃げる方法はない。

 

 

独立混成第4旅団の兵士、近藤一
中国北部の山西省太原
『特集「慰安婦」100人の証言』DAYS JAPAN 2007年6月号,p.16

 

大隊本部がある太原には慰安所がありました。(略)朝鮮人のところへ行った時には話をしただけでした。彼女は田舎の出身で家が貧しく、お金儲けができるからと日本の工場へ誘われて来たのに、気がついたら慰安所、結局あきらめざるをえなかったと言っていました。

昭和15年5月ごろ、中国・湖北省

小俣行男『戦場と記者』

p172-173

こんな前線には、もったいないような若くて、程度のよい女たちだった。この程度の女たちなら、こんな前線へ来なくても、どこでも立派に働けると思って、そのうちの1人、丸顔の可愛い娘に聞いてみるとーー『私は何も知らなかったのね。新宿の喫茶店にいたのだけれど、皇軍慰問に行かないかってすすめられたのよ皇軍慰問がどういうことかも知らなかったし、話に聞いた上海へ行けるというので誘いに乗っちゃったの。支度金も貰ったし、上海まで大はしゃぎでやってきたら、前線行きだという。前線って戦争するところでしょう。そこで苦労している兵隊さんを慰問できるなんて素敵だわーーと思ってきてみたら、「とい(特殊慰安所の特慰)街」だったじゃないの。いまさら逃げて帰るわけにも行かないし、あきらめちゃったわーー』

 

 

 

 


著者は読売新聞の従軍記者
1942年5月か6月頃
ビルマ
小俣行男『戦場と記者 - 日華事変、太平洋戦争従軍記』冬樹社,1967年
p335


私の相手になったのは23、4歳の女だった。日本語は上手かった。公学校で先生をしていたと言った。「学校の先生がどうしてこんなところにやってきたのか」と聞くと、彼女は本当に口惜しそうにこういった。私たちはだまされたのです。東京の軍需工場へ行くという話しで募集がありました。私は東京に行ってみたかったので、応募しました。仁川沖に泊まっていた船に乗り込んだところ、東京に行かず南へ南へとやってきて、着いたところはシンガポールでした。そこで半分くらいがおろされて、私たちはビルマに連れて来られたのです。歩いて帰るわけに行かず逃げることもできません。私たちはあきらめています。ただ、可哀そうなのは何も知らない娘達です。16、7の娘が8人にいます。この商売は嫌だと泣いています。助ける方法はありませんか」

   
 

 

歩兵第150連隊

昭和19年2月からトラック島

 

山本茂実『松本連隊の最後』角川文庫、1978年発行(単行本、近代史研究会、1965年発行)

p283


『お国のため』に連れてこられ、品物かなんぞのように軍隊の慰みものになっているのだ。彼女らの中には根っからの慰安婦ではなく、軍の事務を執るのだとだまされてきた良家の娘も多いということだった。

陸軍軍医。昭和13年から17年、中国戦線、19年から敗戦までフィリピン戦線。敗戦後、フィリピンの米軍病院で日本人捕虜の診療。



守屋正 『比島捕虜病院の記録』金剛出版、1973年

 


中国では検黴担当の軍医として、こうした女性には多数接した。ある女は『料理店の女給になるのだといって何も知らずに連れて来られた』といっていた。

 

 

元アンボン海軍特別警察隊(憲兵)隊長
禾晴道著『海軍特別警察隊ーアンボン島BC級戦犯の手記』太平出版社、1975年

1945年3月、インドネシアのアンボン島。一度は閉鎖された軍慰安所が海軍の司令部参謀によって再び計画され、新しい軍慰安所3軒が同年5月頃に開設される過程。

副官の大島主計大尉は、なにがなんでもやってやるぞ、という決意を顔一面に現わして、「司令部の方針としては、多少の強制があっても、できるだけ多く集めること、そのためには、宣撫の物資を用意する。いまのところ集める場所は、海軍病院の近くにある元の神学校の校舎を使用する予定でいる。集まって来る女には、当分の間、うまい食事を腹いっぱい食べさせて共同生活をさせる。その間に、来てよかったという空気をつくらせてうわさになるようにしていきたい。そして、ひとりひとりの女性から、慰安婦として働いてもよいという承諾書をとって、自由意志で集まったようにすることにしています」。

 そこまで準備が考えられて、承諾書までとる話にはわたしも驚いた。副官は法科でもでているのか、と思われた。

 こんな小さな島に、これだけの銃をもった日本軍が陣地をつくっているのだから、日本軍の要求することを自由意志で拒否もでき、承諾もするという対等な自由が、本当に存在すると思っている考え方もじつに自分勝手であっただろうが、そんなことに気づいていなかった。

(中略)

 民政警察の指導にあたっていた木村司政官が敗戦後、戦犯容疑者として収容されたとき話してくれたが、その時の女性集めにはそうとう苦しいことがあったことを知った。

 「あの慰安婦集めでは、まったくひどいめに会いましたよ。サパロワ島で、リストに報告されていた娘を集めて強引に船に乗せようとしたとき、いまでも忘れられないが、娘たちの住んでいる部落の住民が、ぞくぞく港に集まって船に近づいてきて、娘を返せ!! 娘を返せ!! と叫んだ声が耳に残っていますよ。こぶしをふりあげた住民の集団は恐ろしかったですよ。思わず腰のピストルに手をかけましたよ。思い出しても、ゾーッとしますよ。敗れた日本で、占領軍に日本の娘があんなにされたんでは、だれでも怒るでしょうよ」。

 わたしは、そこまで強制されたとは知らなかった。

昭和17年11月

シンガポール

徳川夢声著『夢声戦争日記(2)』中公文庫、1977年

どうして慰問の熱意を失ったかを、次々に記したいと思う。前記〝大和部隊〟なるものだけでも、私は軍が厭になった。これは若き大和撫子の部隊であった。彼女たちは、皆ダマされてこんなところへ拉致されたのである。--若キ愛国ノ女性大募集。--南方ニ行キ、皇軍ニ協力セントスルノ純情ナル乙女ヲ求ム。--大和撫子ヨ、常夏ノ国ニ咲ケ。というような、勇ましく美しい文句に誘われて気の毒な彼女たちは、軍を背景に持つゼゲン共の口車に乗せられ、高らかな理想と、燃ゆるが如き愛国の熱情と、絢爛たる七彩の夢を抱いて遥るばると来たのである。軍当事者とゼゲン師どもは、オクメンもなく、娘たちの身元を調査し、美醜を選び、立派な花嫁たるの資格ある処女たちを、煙草や酒を前線に送るくらいの気もちで、配給したのであった。なんたる陋劣! なんたる残酷! --あらっ、こんな約束じゃなかった。と気がついた時は、雲煙万里、もうどうしようもない所に置かれていた。

 

陸軍パイロットの証言

マレー

従軍慰安婦110番 - 電話の向こうから歴史の声が』明石書店,1992年,p.54

 

「トミコ」という源氏名朝鮮人慰安婦がいましたが、彼女が「私たちは軍属募集され、お国のためと志願してきたのに、裏切られて…もう、国には帰れない」と話していました。この慰安所の経営者は、年配の日本人でした。

ウェワクからラバウルに帰還した兵士の記録

菅野茂『7%の運命 - 東部ニューギニア戦線 密林からの生還』光人社,2005年

 

大勢の兵隊がもの珍しそうにその兵隊たちの中にY軍曹と運転手のE上等兵の姿があったので、私たちが近寄ると、「あの娘たちは、海軍の軍属を志願したそうだが、だまされて連れてこられたらしい。あの娘は富山の浴場の娘だと」E上等兵は、指差しながら、気の毒そうに私たちの耳元でささやいた。
 なるほど言われてみると、どの娘も暗く沈んだ表情。ろくに化粧もなく、どう見ても巷で働く女たちではなかった。炎天の中に和服を着て柳行李を持っている姿が、一層いたましく写った。男も女も滅私奉公の時代である。だが、私には割り切れなかった。こんなことが公然と行われてよいのだろうか。私は胸に噴き上げるものを抑えながらその場を去った。

 

1943年末頃、ラバウル近郊のココポ(ココボ)

水木しげるラバウル戦記』P30

彼女たちは徴兵されて無理矢理つれてこられて、兵隊と同じような劣悪な待遇なので、みるからにかわいそうな気がした。

著者のカリフォルニア州に住む「コリアン」への聞き取り

 

ヒルディ・カン『黒い傘の下で』副題「日本植民地に生きた韓国人の声」ブルース・インターアクションズ、2006年

キム・ボンスク(女性・1924年生まれ・主婦・京畿道)::私が20歳くらいのとき、町の愛国班の人が、私の年齢と、結婚しているかどうかを調べに来ました。あの人たちは総督府の規則や命令を徹底させるためのスパイ組織で、番犬みたいなものです。次に町の警官がやって来て、召集があったので指定された日に国民学校の校庭に行くようにと言われたのです。同じ年ごろの女の子がほかにも大勢呼ばれていました。そして日本人がこう言いました。おまえたちは看護婦となって大日本帝国軍人のお世話をし、待遇もとてもいいのだそうです。それを聞いて大張り切りした子もいました。前線に送られるというので、その前に訓練がありました。それぞれ木でできた銃を渡され、練習をさせられました。その銃は銃剣の代わりで、それを地面に立てたわら人形にこれでもか、これでもかと突き刺すのです。そんなこと大嫌いでした。両親は私を結婚させようと決めました。そうすれば行かなくていいと思ったからです。こうして私は両親に言われるまま結婚しました。ずっと後になって、外国の前線に送られた女性たちが、泣く泣く慰安婦になったことを知りました。

ビルマ戦線

藤井重夫『非風ビルマ戦線』 

ラモウの軍慰安所のマリ子という名の朝鮮人慰安婦朝鮮の師団司令部兵務部が募集する「特志看護婦」に応募し、軍歌と日の丸に送られて、釜山から輸送船でラングーンに上陸し、前線に送られたが、来てみると仕事は淫売婦と同じであった。

スマトラにいた兵士の記録、コタラジャの慰安所
須藤友三郎「インドネシアで見た侵略戦争の実態」
『こんな日々があった戦争の記録』
上越よい映画を観る会,1995年

 

スマトラ島の最北端にコタラジャという町があります。私たちは最初ここに上陸し駐屯しました。この町には当時日本軍の「慰安所」があり、朝鮮人の女性が二十名程、接客を強制させられていました。みんな二十才前後と思われる農村出身の人たちでした。「慰安所」の建物は、ベニヤ板で囲った急ごしらえのもので、周囲は有刺鉄線が張りめぐらされ、女性たちが逃亡できないよう看守づきのものでした。……
 慰安婦」の話によると、当時の朝鮮の農村は貧乏でした。その弱みにつけ込んで、一人当たり二十円程度の前渡金をもってきて、「日本本土の工場労働者になってもらいたい」と親をダマし、徴用されたというのです。ところが船に乗ると日本本土どころか南方に連れてこられ、しかも突然日本軍の将校にムリヤリ売春を強制させられたと、涙を流して「悔しい」と泣いていました。
 しばらくして今度は農村の椰子林の中にまた「慰安所」ができました。ここには、インドネシア若い女性が十名程収容されていました。この人たちの話によると、ジャワ島の農村から、朝鮮人の女性と同じようなやり方で連れてこられたと憤慨していました。

 

スマトラパレンバン憲兵軍曹として慰安所に関わった憲兵の記録、
インドネシアスマトラ島
土金冨之助『シンガポールへの道〈下〉- ある近衛兵の記録』創芸社,1977年

 

私が一人で行ったある日、彼女は「私達は好き好んで、こんな商売に入ったのではないのです。」と、述懐するように溜息を吐きながら語った。「私達は、朝鮮で従軍看護婦、女子挺身隊、女子勤労奉仕隊という名目で狩り出されたのです。だからまさか慰安婦になんかさせられるとは、誰も思っていなかった。外地へ輸送されてから、初めて慰安婦であることを聞かさた。」
彼女等が、初めてこういう商売をするのだと知った時、どんなに驚き、嘆いたことだろうと考えると気の毒でなら
ない。……彼女の頬には、小さな雫が光っていた。……

 

1944年8月10日ごろ、ビルマのミッチナ陥落後の掃討作戦において捕らえられた20名の朝鮮人慰安婦と2名の日本人の周旋業者に対する尋問調書。
場所:ビルマ・ミッチナ

アメリカ戦時情報局心理作戦班 『日本人捕虜尋問報告 第49号』 1944年


1942年5月初旬、日本の周旋業者たちが、日本軍によって新たに征服された東南アジア諸地域における「慰安役務」に就く朝鮮人女性を徴集するため、朝鮮に到着した。この「役務」の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに、楽な仕事と新天地――シンガポール――における新生活という将来性であった。このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、2、3百円の前渡し金を受け取った。

 


第十八師団の兵士の、日本から騙されて連行されてきた在日・朝鮮人女性についての記録。場所:ビルマミャンマー )、中国・海南島
山口彦三『ビルマ平原 落日の賦』まつやま書房,1987年
(吉見義明『従軍慰安婦岩波新書,1995年,p.91)


第十八師団の兵士が、ビルマのメイミョーの公光荘という軍慰安所で出会ったマリ子という日本名をもつ朝鮮人慰安婦から聞いた話によれば、彼女は、下関に住んでいたとき「対馬陸軍病院で雑役婦を募集しているから行かないか」という話を聞き、紹介人が朝鮮人の産婆で信用できる人なので応募したら、約一〇〇名の女性と一緒に海南島の軍慰安所に送り込まれたという。


カリマンタン・タラカンにいた輜重兵第三二連隊第一中隊の戦中記
1944年
輜重兵第三二連隊第一中隊 戦友会 八木会編『我らの軍隊生活』


 慰安婦は三十名余りおり、その中の一人に源子名(ママ)を清子(本名リナー)と名乗る十八才の若い娘を知り、よく遊びに行った。彼女らはセレベス島のメナドから、東印度水産会社の事務員にすると騙(だま)されて、ガレラに連れてこられ、慰安婦にさせられたそうである。彼女らの女学生時代のセーラ服姿の写真を見せられたが、日本の女学生と同じ服装で、メナド人はミナハサ族といって色白で、日本人によく似た顔立ちで美人であった。彼女らは当時としては高等教育を受けた良家の子女達であった。

海軍軍属設営隊員の河東三郎
インド領ニコバル諸島

河東三郎『ある軍属の物語 - 草津の墓碑銘』(初出:新読書社,1967年)日本図書センター,1992年

 

 かの女ら慰安婦の多くは、戦地に行くと無試験で看護婦になれるとだまされてきたのだそうだ。かの女らは看護婦になるつもりで、戦地に従軍してきたらしい。そんなわけで、かの女らも、私たちと同じ軍属である。だまされたといって、最初、かの女らは泣きわめいたそうだが、かの女らは、『特殊』という看護婦にはちがいなかった

海軍所属の兵士・鹿野正伍
トラック諸島の夏島(ミクロネシア

鹿野正伍『ある水兵の戦記』光風社,1978年

 

(夏島の慰安所で)妓に内地に手紙を出してくれと頼まれた。「助けると思って、中を読んでください。騙されて連れてこられました妓は掌(てのひら)を合わせた。媚びた感じではない。妓の目尻に光るものがみられた。

1942年
第4海軍施設部軍属
トラック諸島の夏島 南國寮

『海を越える一〇〇年の記憶』図書新聞,2011年
松原勝「軍による『慰安所』管理は紛れもない事実」p.109-127

 

 源氏名でみどりさんという人がいてね、当時22歳っていってました。だまされてこんな所に連れてこられたってね。私がそこへ行き泊ると、泊まりを受けなかった女の子たちが3、4人集まってきて、いろいろ話をしてくれました。私はどこどこの出身だけど、親やきょうだいと引き離され、だまされてきたんだというわけですよ。人によってはね、子どもや夫にも引き離されてきたんだと泣いて訴えるわけです。高級将校のメイドにならないかとか、海軍病院の雑役の仕事だとか、30円くらいの月給で食事も泊まる所もただだから1年くらいこないかとね。でも、ここへ連れてこられて初めて仕事を知って心が裂けるように思ったと。ひどい話で、日に10人もの相手をさせられるとも言ってました。僕が第四海軍施設部の職員だと知っていたし、若かったからね、気を許していろいろなことを話してくれました。
 トラック島の「慰安婦」は、朝鮮の女性がほとんどでしてね、私の叔母が朝鮮の方と結婚しているということや学生のころ朝鮮人の知り合いもいて、朝鮮人には特別な気持ちを持っていたことも関係していると思いますね。

 


陸軍通訳の永瀬隆の証言
シンガポール

青山学院大学プロジェクト95『青山学院と出陣学徒 戦後50年の反省と軌跡』p218
永瀬隆インタビュー「私の戦後処理」
 1995年

「通訳さん、実は私たちは国を出る時シンガポールのレストランの食堂でウエイトレスをやれと言われました。その時もらった100円は家族にやってでてきました。そして着いたら慰安婦になれと言われたのです」
彼女たちは私に取りすがるように言いました。・・(略)・・・その慰安所が始まる前に、小太りの隊長が毎晩彼女たち一人ひとりを試しているのを聞かされました。・・・これが軍隊かと。やっていることは前の西欧の植民地よりひどいものでした。

 

 

 

 

沖縄で慰安婦生活をさせられたペ・ポンギさんから聞き取り

川田文子『赤瓦の家 朝鮮から来た従軍慰安婦

筑摩書房  1987.2

p39


(1943年晩秋 興南で見知らぬ男に声をかけられ 軍に結び付いた周旋屋と通訳)
皆商売する人はうまいこと言うね。「仕事せんで金儲かるところがある、行かないか」っていうさ。「仕事しないででんな風に金が儲かるのかね?」「とにかく行ったら儲かる。洋服も要らない。布団も捨てて行きなさい。・・・(略)・・・とにかく儲かる。あんた一人でこの金どうするか」そういうもんだから、あんまり嬉しくてね、そんな金があったらどうしようかね、あれこれ考えて、飯も喉を通らないくらいさね。

日本人慰安婦菊丸さんからの聞き取り

トラック島に向かう

広田和子『 証言記録従軍慰安婦・看護婦 戦場に生きた女の慟哭』

 新人物往来社 – 1975

p19

 

同様の聞き取りが1971年『週刊アサヒ芸能』に掲載され、平塚柾緒編『知られざる証言者たちー兵士の告白』 (p339ーp349)にまとめられている。


横浜を出て神戸に寄って、それから朝鮮の釜山。釜山で朝鮮人の女性もかなり乗船したわよ。彼女たちは私たちと違って志願じゃないらしくチョゴリを着て、「アイゴ、アイゴ」と泣く姿がなんとも悲しくて……私もつられて泣いてしまったわ。

昭和19年、応召し、ビルマ方面で戦う。著者の体験、戦友の証言のまとめ。

 

品野実著『異域の鬼』谷沢書房、1981年。

 

慰安婦の)第一陣が到着したのは昭和17年の暮れも押し詰まっていた。初めは朝鮮娘10名だった。みんな将校クラブ勤務とか挺身奉仕隊など『お国のため』という、かっこよい触れ込みにだまされて集められた。逃げ場のない輸送船内で、抱え主に事実を告げられいい含められて、泣く泣く『実習』で仕込まれてきた娘たちだ

本田忠尚著『茨木機関潜行記』図書出版社、

1988年

南方要員の回想。

p73~74

 

(その女は)朝鮮人の娼婦だが、かなりの美人であり、娼婦になるような素性の女とは思えなかった。わけを聞くと、軍の補助要員という名目で採用されたが、段々格下げになり、ピー屋に落ち込んだという。つまり、だまされて連れてこられたのである

著者は、予科練出身搭乗員として、昭和17年7月から約1年間は南方・ラバウル

 

角田和男著『修羅の翼』今日の話題社、1990年

p133-134

不思議に思い色々事情を尋ねると、ここラバウルに今いる海軍下士官兵用の慰安婦は、殆どが元山付近の北朝鮮出身者が多いのだが、初めは女子勤労挺身隊として徴用され、横浜に着いた時に、内地の軍需工場に働く者と前線の慰安部隊との希望を聞かれ、気の強い仲間が仕事の内容は知らずにお茶汲みか食事洗濯の手伝い位に考えて前線を希望したのだという。船に乗せられてトラック島に向う途中で初めて慰安婦の仕事を説明され、驚いたが既に遅かった。船の中では、毎日、これも天皇陛下のためであると教育され、トラックを経由、ラバウルに着いた時は大部分の者があきらめ、しばらくの間は4、5名の者が言う事を聞かなかったが、今では故郷に許婚者が待っているという一人だけが頑張って何と言われても聞かず、仲間の洗濯、炊事などをしているということであった。

昭和19年7月、「軍夫徴発令状」により、他の朝鮮人とともに、奄美大島沖縄本島で軍夫として働き日記をつけていた。

 

金元栄著『朝鮮人軍夫の沖縄日記』三一書房、1992年

彼女の身の上に好奇心をおぼえた。『娘さんは、どうしてここに来たの?』。私の問いに、彼女は答えず、ただ首をうなだれたまま、顔を赤らめるだけだ。抱え主がつけてくれた名は、貞子だという。
1月18日、ためらっていた貞子が、やっと口を開いて、次のような話を聞かせてくれた。貞子は、ソウル近郊の農家のひとり娘として生まれた。高等女学校5年に進級した頃(父親が財産をなくした上に病死)。貞子は学校をやめ、京城のある百貨店に就職し母親は裁縫台で、賃仕事(ところが)貞子は、多くの同僚達とともに、勤めていた百貨店を解雇された。解雇されて、する事もなく遊んでいる娘、ということになれば、明日にでも、挺身隊志願の勧告を受けるだろう。こういう切迫した時期に、母親は愛国班長から、耳よりな話を持ちかけられた。内地にある民営企業で、女工を募集しているのだが、千円の前金をもらえ、2年間の契約で、寝食を提供された上に、50円の月給ももらえる、という条件だった。母親は、『娘を挺身隊からのがれさせたい』一心で、この話にとびつき、貞子は貞子で、千円の金があれば、母親が楽に暮せるだろうと考えて、募集に応じる決心をした。「愛国班長の立会いの下で、母子の印を押して、千円の現金を、其の場でもらった。3日後に、貞子は見知らぬ男に伴われて、釜山までやって来た。そこで、10人の女達と合流した時、彼女はすでに、人肉市場の捕らわれの身となってしまっていたのだ

 

元飛行第21戦隊陸軍准尉・水柿敏男の手記「翼の陰に」の一節。

 

『太平洋戦争ドキュメンタリー・第22巻・栄光マラソン部隊』今日の話題社、1970年

 (228~229)

 

栗田軍曹も女には目がない。パレンバンには慰安所の女だけど、いい彼女が彼を待っている。横浜で生まれ、横浜の昔の女学校を卒業した朝鮮の女だ。毛筆で手紙を書き、驚くほどの達筆だった。栗田軍曹がよく自慢げに見せてくれた。軍にだまされ、南方に連れてこられて、慰安所の女にされてしまったらしい。教養もあり美人ときている。まことにお気の毒というよりほかない

金井は、昭和18年、入営し、昭和19年6月、東京陸軍経理学校を卒業し、満州孫呉

 

金井英一郎著『Gパン主計ルソン戦記』文芸春秋、1986年

p55

『野戦貨物廠の次がいよいよ最後の軍慰安所だ。第一、第二とも25人ずつ、50名の慰安婦が、それぞれの個室を持って、兵の慰安業務を行っている。慰安婦はすべて若い朝鮮女性である』。中尉はここで声を落して、『彼女たちは、女子挺身隊とか、女子愛国奉仕隊とかの美名で、朝鮮の村々から集められたらしい。18歳から23歳までの独身女性で、仕事は軍衣の修繕、洗濯等の奉仕であると説明されての強制徴用であるようだ。連れてこられて、仕事の内容を知り動転するが、もはやどうするという自由はない。

 

南方・トラック島

守屋清『回想のラバウル航空隊』

光人社、2002年

 

昭和18年2月

p73~74

(トラック島の)夏島には士官用のレス(レストラン)として、小松(通称パイン)と南華寮の2軒があるということだった。・・・・空瓶を割るのを楽しみに飲んでいるようなしぐさは、彼女たちの荒んだ気持を如実に現わしていた。彼女たちの中には、軍属として御国に奉公するのだと誘われて、純粋な気持で来た所が前線慰安所だったいう者も多かったと聞いた

 

 

井関恒夫著『西ボルネオ住民虐殺事件―検証ポンテアナ事件』不二出版、1987年発行。著者は、長くポンティアナに住む民間人

『蓄妾禁止令』である。日本人が妾を持つことを禁止する軍の指令である。

現在妾を持っている者は妾と別れて、その妾を慰安婦として差し出せとの命令である」「イスラム教では、4人迄の妻帯を許されているこの地方の風習では、現地妻となった女達は、自分は第二夫人であると自認してる者達なのである。その女達を一括して慰安婦とするから差し出せとの命令である、当然色々な反発が生じた」

「又慰安所に入れる女を求める方法として、民政府に命じ、日本人商社に勤めてる未婚の女事務員を調べて、処女でない者は、日本人との関係を自白させて慰安婦にしたケースもあった。現に住友殖産の17歳の女事務員が局部を調べられたといって泣いて帰って来た例もある」

「これらの事実は、若き隊長が如何に自らの権力に溺れ、原住民を蔑視し個人の人権などを全然無視した行為であり、原住民の一部に不安と恨みを買ったかを物語っている。そして慰安所は、軍人用、民政部役人の高等官用・判任官用及一般商社用と分かれて設けられ、一般商社用は、慰安所で女を抱く毎に月日氏名を記入する事になっていた」(p20~22)

 

平和祈念事業特別基金編『平和の礎・軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦4』平和祈念事業特別基金、1994年。「戦争と軍医と衛生兵」朝鮮・大邱医科専門学校を卒業し、昭和18年8月、独立混成第22旅団独立歩兵第66大隊に軍医見習士官として配属。大隊本部は中国・広州市の河南

朝鮮の学校の出身者だと慰安婦に直ぐ分かるのでしょうか。巡察や定期検査の折りなどよく相談を持ち込まれました。奴隷狩同様に連れてこられたとか、いつ帰れるのか、こんな体では故郷に帰れないとか。見習軍医では答えるすべもありません。黙って聞いているだけでした。(p370)

 

吉岡義一著『零の進軍・下』熊本出版文化会館、2015年。著者は、昭和18年12月、中支に派遣され、大陸打通作戦で湖南。

中国・義寧 「××兵長はまた珍しい話を切り出した。『川向こうの最初の民家はピーヤだぞ。俺は遂にピーヤに行ってしまった!』(ピーヤとは現地の中国女性、主に婦人を捕まえて慰安婦にして占領地の民家に拘束し、慰安所として兵士たちの戦力の減退を防ぐために上官の命令で作られていた)と、××兵長は遂に自分の童貞を破ったと残念な表情で語りかけた」

 

 

 

鈴木英次著『サムライの翼』単行本、光人社、1971年。著者は、読売新聞社記者で、昭和17年3月、ビルマ方面特派従軍記者としてビルマなどに赴く。

ビルマ)野戦支局の全員が参加したその席上で、ぼくは、若々しい日本娘をみておどろいた。そこには3月前にきたばかりだという18歳から23歳までの女たちが20数人もいたのである。うそかまことか、真実のほどは、わからなかったが、女たちは南方総軍司令部のタイピスト要員に応募し、つれて来られたのがメイミョの山の中、しかも15軍の将校たちのための“芸者”にさせられた、というのだった。ゲイシャとは名ばかりで、それはあきらかに15軍の料亭兼将校慰安所なのであった」(p392)

 

 

鈴木四郎著『南溟の空』未来社、1989年発行。著者は、同盟通信の航空従軍記者として、昭和17年5月、ビルマ

「派手な衣装をつけ、白粉を厚く塗り、顔、かたちとも整っているものの、松太郎(芸者の一人)はもともと平凡な田舎娘で、他の芸者たちと違って酒を飲み、馬鹿騒ぎすることができない内気な性質だった。どうして、こんな娘がビルマ界隈までやってきたか私には不思議だった。多額の金額に瞞され、甘言に乗り、何も知らずにビルマに連れてこられたのだろう。松太郎が師団の某参謀の夜の勤めを泣き泣き強いられているのを私は聞き知っていた。日本軍のどの戦線にもみられる慰安婦ほどの隠微と悲惨はないものの、片や一方が一般兵を相手にするに対し、萃香園は限られた将佐官級に同じように媚を売ることを求められた」(p280~283)

 

佐賀純一著『戦火の記憶-いま老人たちが重い口を開く』筑摩書房、1994年。聞書き集

ボルネオ)慰安所の親父たちは、いろいろと口でうまいことを言って原住民を集めたんだろう。ある所では女が泣き騒いで暴れているというんで、私が行ってみたら、騙されたといって泣きわめいている

 

軍人恩給連盟浮羽郡支部編『後に続く真の日本人へ―大東亜戦争の想い出』明窓出版、2001年

スマトラ・ブキチンギ)私たちが駐留していたスマトラでも、たしかにブキチンギに慰安所があった。日本人女性10人ほどと韓国女性10人ほどがいた。恥をしのんでいえば、私も一度だけ韓国女性を買ったことがある。その女性がたどたどしい日本語で語ったところでは、『軍人相手の売店の売り子と聞かされてやって来たが、こんな仕事だった。いまはもうあきらめているし、お金になればいい』ということだった。(p200)

 

辻野龍一著『一銭五厘の青春―中支那戦線に従軍した下士官の手記』市田印刷出版、2011年。父の戦争体験手記3冊をもとに書き下ろしたもの。父は、昭和14年1月、現役兵として入営し、同年4月、漢口に上陸。野砲兵第39連隊獣医部に属し、各地を転戦

(昭和19年)気晴らしに焼き栗を持って慰安所の頼子に会いに行く」「この頼子はQ曹長の馴染みの月子と同郷である。一緒に女子挺身隊だと言われ内地から中支まで連れて来られたという。戦地に来てみれば否応なしに慰安婦にさせられたと嘆いている。当陽に着いたのが3年前の20歳の時だという。私が軍曹になったばかりの時である。『俺はあのときが初めて慰安所へ上がった時であまり覚えていない。お前はよく俺を覚えていたな』『そうよ。あの時はまだ1週間目だったのでよく覚えている』と笑う。騙されたと怒って逃げ出しても周りは知らない土地だし敵地なので諦めたという。それからは自暴自棄になり酒ばかり飲む生活が続き、今では胃痙攣が持病だと笑っている」(p283~284)

 

 

権二郎著『オラン・ジュパン―ジャワ、スマトラ・残留日本人を訪ねて』長征社、1995年発行。同書に登場する残留者の一人、ジャワにある日本の製薬メーカーの研究薬草園にいるヨハネス(85歳)。薬剤師だった彼は、戦時中、スマトラ・メダンの軍政部衛生局管轄「メダン病理研究所」で働く。彼の体験談

スマトラには全部で6000人ほどの慰安婦がいたそうです。大部分は現地人で、終戦後すぐに解放されて、それ相当の手みやげを持たせて帰らせたので表面的には問題はありませんでした。日本人女性もいましたが、連合軍に要求される前に、看護婦やなんかに仕立てて病院関係者と一緒にいち早く帰還させていました。残りが朝鮮人慰安婦で450人いました。そのうち300人はすでに朝鮮に帰還していて、あと150人残っていました。

ところが、先にその300人を乗せて帰った船の輸送指揮官だった衛生局の×××さんという人が行方不明のままだというのです。船は確かに朝鮮に入港したのです。おそらく、当時の朝鮮の混乱した状態の中で、これまで日本が犯してきたことへの恨みから、血祭りにあげられたのではないかという話でした。ですから輸送指揮官というのはイヤで……。それに、××に教えられて、朝鮮人慰安婦が収容されていた宿舎をこっそり覗いてみましたが、酒を飲んで胡坐をかいてクダをまいている者、博打を打ってケンカをしている者――まったく酷い状態でした。じつは連合軍が進駐してきたあと一度、これらの者は、連合軍の慰安婦となったのですが『気にいらない』とすぐに送り返されてきたそうです。そういう者たちを150人も連れて行くというだけでもゾッとしました。しかし、元はといえば日本軍に騙されて連れて来られ、処女を失い、青春をメチャクチャにされたわけですから哀れな人たちです」(p110~112)

 

 

 

桜田静務著『一兵卒の戦争回想記』私家版、1998年。著者は、昭和16年1月、入営し、17年、シンガポール陥落後、隣接するブラカンマティ島の海上警備任務にあたるが、同地に開設された日本語教室の教師も務める

昭和17年、マレー・ブラカンマティ「ある日、日語教室に日直将校が姿を現す。彼は広島高等学校出身で、私の後輩である旨を告げる。雑談をしているうちに、慰安所の話をしてくれる。慰安婦の中にはズブの素人がいる。南方に希望の職場を求めてやって来た女性達である。『将兵は命を的に戦っている。女性が貞操を提供するのは当然の事である。……』というわけで、強制的に慰安婦をやらされているものもいるという。彼女達のことを思うと気が重くなって仕方がない。日語の先生がうらやましいと述懐する」(p72)

 

 

 

岡田栄蔵編『噫々万陀礼之里―歩兵第67連隊(ビルマ派遣祭7371部隊)記録文集第三巻』私家版、1966年

ビルママンダレー。「想い出のオンパレード(と題する歩兵砲中隊員の手記)」

「我々の連隊が『インパール』への進撃のため、進軍途中における『マンダレー』は想い出多き街である。王城も街も道路も本当に良い町、そして長閑な町のたたずまいであった」「(無断外出中、その町中の)馬車の中で妙齢の日本婦人に会うことが出来た。よくよく見るとどうもどこかで見た顔である」

「入隊する迄5、6人で私達が(大阪の)島屋町で下宿していた時のことである。我々の下宿の前に喫茶店があって、そこで働いていたウェイトレスがこの人である。或日のことだった。丸髷を結ったこの人が、私達の下宿へやって来て、『永らくお心安く願っておりましたが、これから芸者ガールになって南方へ行って参ります』と挨拶するので、早速無い金をはたいて、ささやかな送別会をして送ってやったのだ」

「王城前で下車して、なおも話しながら歩いて行くと、将校専用の慰安所に連れ込まれてから、だまされたと気がついたが後の祭りだ。彼女は『だまされて連れて来られ、はずかしいことですが、私は慰安婦にされてしまいました。帰ろうにも帰れず、こんな務めをしています』」「『この慰安所には、大阪の女の人が多いし、皆懐かしがるから遊んでいらっしゃいよ』と大いにすすめてくれるので、ついその気になり、裏口からコッソリ入った。見つかったら大変なので、すぐ丹前に着がえ、私の兵服はまるめて床下へ投入れて隠匿し、慰安所にあった陸軍中尉の将校服を吊り、軍刀を立てかけて、さも中尉殿ご遊興中のごとく擬装してすましていた」(p175~176)

 

 

池田佑編『秘録大東亜戦史・改訂縮刷決定版・第3巻・マレービルマ篇』富士書苑、1954

「マレー軍追放(と題する)共同通信社政治部次長××××(執筆の章)」

シンガポール

やまと部隊の経営に属する料理屋に勤めている娘子軍の一人が、店を逃げ出して総軍参謀に実情を直訴した。この女は現地で事務員かタイピストの仕事をするつもりでやまと部隊に応募したものだが、来てみれば料理屋の女中で将校相手にいやなサービスを強要され、こんな約束ではなかったと悲嘆にくれてい時、自分の遠縁の者が総軍参謀として同じシンガポールの地に来ていることを知って、救いを求めたものであった」(p109~110)

 

都築金光編『ビルマ戦線"地獄の霊柩車隊奮戦記"第49師団歩兵第168聯隊手記集』私家版、1975年

(昭和19年2月、補充兵で竜山の第49師団に入隊した一等兵の手記)

女の話では、最初、特志看護婦だった。しかしビルマに入国してから病院に1日も勤務する事もなく、高級将校の相手をさせられ、月日と共にだんだん下に落とされ、今は兵隊相手で1日に数十人の相手をさせられ、今日も百二十人余りの相手をさせられたと、涙を流して夜更けまで時間の経過も忘れて語った。(p99~100)

 

池田正著『隊付衛生兵』近代文芸社、1990年発行。著者は陸軍機歩3部隊の衛生兵で、昭和15年から18年にかけ、中国・内蒙古

慰安所には、性病予防の立場から、医務室の所管でもあって、衛生兵は『公用証』を腕に巻いて出入りした。女たちに聴いてみると、銃後では食糧事情が悪く、軍に行ったら、メシが喰えて、神聖なる仕事があるから、とダマされて来たケースもあった。(p13~15)

 

 

栗原政次著『湖南の戦野』私家版、1976年発行。著者は、昭和19年、2回目の応召で、金沢連隊に従軍、中国・湖南の永安で暗号班長勤務

昭和17年、マレー・ブラカンマティ「ある日、日語教室に日直将校が姿を現す。彼は広島高等学校出身で、私の後輩である旨を告げる。雑談をしているうちに、慰安所の話をしてくれる。慰安婦の中にはズブの素人がいる。南方に希望の職場を求めてやって来た女性達である。『将兵は命を的に戦っている。女性が貞操を提供するのは当然の事である。……』というわけで、強制的に慰安婦をやらされているものもいるという。彼女達のことを思うと気が重くなって仕方がない。日語の先生がうらやましいと述懐する」(p72)

 

 中支方面へ慰安所の商売でくる人は、たいてい九州出身の人であった。日本人の慰安婦1、2名と、朝鮮の娘4、5名連れてきた。これらの娘たちは貧民の娘で、甘言に誘われて、ほとんど徴用のような形で連れてこられたものらしい。当時、こうした事に狩りだされた朝鮮の娘が戦線へ送り出された数は莫大なものであったということである」(p79~80)



肝第四中隊史刊行編集委員会編『南支派遣軍肝第四中隊転戦記』私家版、1991年発行。同書は、中国各地を転戦した独立歩兵第222大隊(肝第3322大隊)第四中隊員の手記集

昭和19年、中国・広東

「(広東市内の)慰安所も覗いてみた。海軍は立派な建物で、日本人は美人ぞろい。それに比べ、陸軍の方は日本人は少ないようだった。海軍にはかなわないと思った。聞くと、看護婦と騙されて連れてこられたのだという」(p141)

 



 

 

 

 

 

高橋顕編『思い出の幾山河―第13師団通信隊譜』私家版、1982年発行。同書は、同隊の記録・手記集。同隊は昭和12年10月から中国各地を転戦

中国。「戦場のウラおもて(と題する手記)」

『国際写真情報』昭和13年6月1日号の説明は―『慰安所―つまり日本兵士をサービスする街頭の接待所』と歯切れが悪い」「軍隊の悩みの一つは性的対策だった。戦闘―占領―慰安所という順序はどこでも見られた。建物を接収し、『慰安婦』は内地からだけでなく、朝鮮からも連れてこられ、現地でも強制的に徴募された」(p302)

 

 

山口時男軍医の1940年8月11日の日記 

中国中部

1940年8月、湖北省董市附近の村に駐屯していた独立山砲兵第二連隊は、「慰安所」の開設を決定し、保長や治安維持会長に「慰安婦」の徴募を「依頼」した。その結果、20数名の若い女性が集められ、性病検査を担当

溝部一人 編『独山二』〔独立山砲兵第二連隊の意〕私家版,1983年,p.58

 

さて、局部の内診となると、ますます恥ずかしがって、なかなか襌子(ズボン)をぬがない。通訳と維持会長が怒鳴りつけてやっとぬがせる。寝台に仰臥位にして触診すると、夢中になって手をひっ掻く。見ると泣いている。部屋を出てからもしばらく泣いていたそうである。
 次の姑娘も同様で、こっちも泣きたいくらいである。みんなもこんな恥ずかしいことは初めての体験であろうし、なにしろ目的が目的なのだから、屈辱感を覚えるのは当然のことであろう。保長や維持会長たちから、村の治安のためと懇々と説得され、泣く泣く来たのであろうか?
 なかには、お金を儲けることができると言われ、応募したものもいるかも知れないが、戦に敗れると惨めなものである。検診している自分も楽しくてやっているのではない。こういう仕事は自分には向かないし、人間性を蹂躙しているという意識が念頭から離れない。

 

 

数人の満州軍国少年の話

 

菅原幸助著『初年兵と従軍慰安婦三一書房、1997年発行。

筆者(菅原)は新聞記者現役のころ」「関東地方のある市長さんと親しく軍隊時代のことを語り合ったことがある。(市長は語る)『私は北支と中支を歩きました。陸軍中尉でしたよ』・・・『後方部隊でした。戦闘が終って、村が焼け野原のようになる。村人が畑や山小屋にかくれている。その宣撫工作をやった。占領した村にはたくさんの娘や主婦がいた。その女たちを捕らえ、軍の慰安所へ送り込むのが主な仕事でね』『可哀相な気もしたが、まず美人で、よさそうな娘や主婦を将校が2、3日泊めて“慰安”する。その後、前線部隊の慰安所に送り込む。いい仕事でしたよ』

 

 

 

筒井修・外編『最後の騎兵隊』私家版、1984年発行。同書は、騎兵第55聯隊の記録・手記集。同聯隊は、昭和16年11月、坂出を出発し、ビルマで転戦する。昭和17年、ビルマ・マダヤ。「回想記(と題する手記)」

「(昭和17年5月)マンダレー北方約30粁のマダヤに引き返し、部隊主力は駐留する事になりました」「女は別としてビルマ人も帰って来て、物資の収集等、軍との協力態勢に入りました」「衣食が足りれば次に来るものは慰安婦の問題です。初めは現地人で何とかならないかという事で」「女は未だ余り帰ってこないのですが、どこかに潜んでいるはずで、生活にも困っているのではないかと思われるのですが、漸く職業婦人らしい女を4、5人見つけてくるのに10日もかかりましたか?然しこの人々は女に飢えているはずの兵達にもあまり評判はよくありませんでした。

1か月も経っての事ですか?師団が世話をしてくれた慰安婦は処女だという事で、師団長の巡視までは手付かずに囲っておけというような事で、涎を流しながら待った全員の女房となり、カラダン作戦の始まるまで、帰還要員部隊と行をともにしました」(p222~223)

 

 

 

 

 

1944年4月

著者は英国人。植物学の権威

E.J.H.コーナー『思い出の昭南博物館 占領下のシンガポールと徳川候』

p163

人夫が女であり、若くてきれいだと、カタンの近くにある兵営に送られ、兵隊たちの慰みものになった。通行人は、彼女らがジャワ語で「助けて」と悲鳴をあげるのを耳にし、胸をしめつけられた。

 

 

昭和17年10月、陸軍報道部企画による主要雑誌編集長らによる南方占領地視察に参加

 

黒田秀俊著『もの言えぬ時代』図書出版社、1986年

p156-157

街はずれに近いマンガライというところには、白人の女たちを収容している将校専用の慰安所も設けられているという。敵性国の婦人たちで、生活の途に窮したものは、強制的にここへ入れられて働かされるのだそうである。『なかなかきれいなのもいますよ。もっとも、そういうのはたいてい参謀の奴らがひとり占めしていますがね』と軍医はいった