労務動員について知っておくべき基本事項と基礎資料1危険な職場・炭鉱、強制動員資料

 

 

 

朝鮮人強制連行ーー労務動員を整理する

      1、 危険すぎる職場「炭鉱」

炭鉱での採炭は非常に危険な職場であって、張り巡らされた地下道に降りねばならず天井が落ちて来る落盤事故、水害、岩粉などによる「じん肺」病、ガス中毒、炭塵への引火と全焼火災、ガス爆発など死亡事故やケガと隣り合わせの仕事であった。

1939年から45年までの北海道の炭鉱のガス突出あるいは爆発事故だけでも、約14件を数える。その中には死者177人を数えた1941年の三菱美唄炭鉱ガス爆発や死者109人を数えた三菱美唄炭鉱ガス爆発が含まれている。もちろん負傷者も大量に出ている。

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(北海道保健福祉部保護課発行『北海道と朝鮮人労働者 朝鮮人強制連行実態調査報告書』p222より)

 

イウヨンは炭鉱が1930年代には機械が導入されたと述べているが、必ずしもそれは事故の減少に繋がらない。かなり機械化し、安全も考えられていた戦後の炭鉱でさえ、事故だらけなのである。この表の中で何度もガス爆発事故を起こしている北炭(北海道炭鉱汽船株式会社)は、戦後も1960年、65年にガス爆発、68年に坑内火災で、計135人が死んでいる(『全記録炭鉱』鎌田慧p42)。

大量の石炭を運搬するために、三池炭鉱にベルトコンベアーが本格的に導入されたのは1936年だが、乾燥した場所ではゴム製ベルトは燃えやすく簡単に火が付き、火災が発生したという(『閉山』p29 奈賀悟)

戦時中はここにさらに別の危険が追加された。日中戦争が始まると国は企業に石炭の増産を命じたが、三菱美唄炭鉱ではその割り当てを達成するために、安全性を無視してドベラ(坑道の側面)を削るように指示が出た。また発破3本ごとに散水して炭塵を防止することになっていたがこれを無視して70,80本も連続して発破をかけたため作業場は炭塵がもうもうと立ったという。切羽の天盤が下がって支柱がみしみし鳴っている中でも作業は続けられた。(前掲『北海道と朝鮮人労働者』p256~261)

田川警察署特高主任であった満生重太郎はこう述べている。「炭鉱では普通でも坑内事故が多いのに、戦争の末期になると資材が欠乏して坑木さえ手に入らなくなった。落盤事故などでケガする朝鮮人が多くなりましたからね。・・・保安を手抜きする小さい炭鉱ほど死亡率が高かったですよ」(『消された朝鮮人強制連行の記録』林えいだい豊洲炭坑」p223)

麻生商店愛宕炭鉱労務係・野見山巍(のみやまたかしはこう証言している。「朝鮮人はほとんど坑内で働きました。戦時中は無理な掘り方をしたので落盤事故で犠牲者がずいぶん出たですな」
(『朝鮮人強制動員関係資料1』「東北地方朝鮮人強制連行真相調査団聞書 福島県山形県関係」57)

無理なノルマ達成が事故につながったようだ。

高松炭鉱第2抗共安隊隊長をしていた伊藤秋蔵も無理な出炭が事故につながりやすいことを述べている。「大出し日には 、普通の出炭の約倍の函出しになるからね 。今日は体の調子が悪いから 休みたいといっても 、区の外勤の労務係が行って 、「今日 は 大 出し日じゃ、休む ことはならん 」と呼び出すんです 。 大出し日は月に一、二回で、最後には週に一回 となりました 。 普通の採炭でもきついのに、翌朝まで残業を続 けるから 、体力も限界に来て、注意が散慢になっているから事故が起こりやすかった。大出し日になると朝から気分的に嫌で 、あ―あと溜め息が出ましたよ」(『消された朝鮮人強制連行の記録』林えいだい「日炭遠賀鉱業所」p555~556)

ノルマ達成のため、15時間を超える労働も当たり前であり、『戦争を知らない世代へⅡ㉑佐賀編 強制の兵站基地 炭坑・勤労報国・被爆の記録』p115、など複数の日本人の証言もある。

1944年、三菱美唄炭鉱の大爆発では、109人(内氏名が確認された朝鮮人71人)が死んでいるが、その責任は一体どこにあるのだろうか?

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(北海道保健福祉部保護課発行『北海道と朝鮮人労働者 朝鮮人強制連行実態調査報告書』p255より)災害回数のピークは1944年、死者数も断トツに多い。

 

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(北海道保健福祉部保護課発行『北海道と朝鮮人労働者 朝鮮人強制連行実態調査報告書』p222より)*変死や病死の中にはリンチ殺害が含まれている

 

 

炭鉱における朝鮮人の死因の8割以上が事故死である。こうした炭鉱の危険さや納屋制度の暴力性、それに引き換え賃金の安さなどの悪条件は戦前からよく知られていたので、炭鉱は万年の人手不足に陥っていた。朝鮮の人達が大量に戦時動員されたのはそういう仕事だったのである。

*貝島大之浦炭鉱が、朝鮮納屋を廃止したのは、1940年。納屋頭は労務係となった。
『消された朝鮮人強制連行の記録』林えいだいp71)

 

       2、望まぬ職場に連れていかれるということ

「監獄部屋」の異名をとっていた炭鉱、鉱業の3K職場は、労務動員がはじまる1939年よりも以前から人手不足であり1937年10月警察当局は、朝鮮人求職者が炭坑の求人に応じようとしないことを報告し、内務省は労働条件の改善を炭鉱経営者に要請していたが、改善されることはなかったという。労働科学研究所「炭鉱における半島人労務者」/『朝鮮人強制連行』p37外山大)

元日炭高松炭鉱の労務係長・野村勇は、炭鉱の募集について「炭鉱というところは非常に危険な職場で、他の産業に比べて集まりが非常に悪く、呼びかけても敬遠されました」と述べている。(『消された朝鮮人強制連行の記録』林えいだいp485)

強制連行されたわけではないが、九州の炭鉱で14年間働いた宋甲得は「炭鉱で働く人はいなかった」「炭鉱には人が集まらなかったようだ」と述べている。(『百万人の身世打鈴』p418)

一方、内地の炭鉱が、朝鮮人を連れてきて安い賃金で酷使したことは、総督府も知っていた(『朝鮮日報』1937-6-27/『朝鮮人強制連行』p35外山大)

労務動員された朝鮮人が連れていかれたのは、6割以上がこうした3K職場炭鉱であり、待っていたのはタコ部屋的な酷い扱いだった。金賛汀の採談した『証言 強制連行』p15-16の慶尚北道に住んでいた金達善の話によると、1941年ころになると募集に応じた人の手紙もあり 「死ぬほどつらい思いをする」という噂が流れていて、「日本に行きたいという人はほとんどいなくなっていた」という。 

 

*「ほとんどいなくなった」であり、若干はいたであろうことは注目しておく必要がある

 

1939年、朝鮮半島旱魃が襲い、不作だったので生活に困り、労務動員に喜んで応じる人もいたがすぐにその波は終わり、労務動員計画初年度がはかばかしくない状況に、石炭業界が厚生省を通して圧力をかけ、1940年3月26日朝鮮総督府は『昭和15年労務動員計画設定に至る迄の募集による朝鮮人労務者の移住に関する件』を出した。これによると「特に石炭産業に」「内地及樺太移住に関し」「動員計画促進の措置を講ずるものとする」となっている。(前掲『北海道と朝鮮人労働者』p52~53より)

 

こうして「促進」された労務動員ではあったが、成績は依然はかばかしくなく、一方では密航や縁故渡航は増加した。そこで総督府警察は密航の取り締まり強化に動いた。

 

*1942年にも、旱害が襲い一時的に応募者が増えた。200名の割り当てに倍に達する応募(朝鮮総督府警保局『経済治安週報』68号)や福岡県八幡製鉄所の130人の募集に180名の応募があったという(朝鮮総督府警保局『経済治安週報』57号)。

これには理由として「農産物の全部を供出し空腹で仕事にならぬ、内地の炭坑なども配給量の少ないことは知ってい るか確実に配給を受けられるから応募したと漏らす者22名、全く収支か合わないのに官憲は農民ば かり絞りとるとする13名、農村にて働いても家計は維持できない.どこで働いても同じだから行ってみたいという31名、諸物価が高騰し営農費は嵩むのみ、農産品はやすく、したかって肥料代などが借金になってしまう.これを返済する為に内地で働く考えであると言う者13名」だという。要するに生活できないから行くというわけだ。

しかしいずれも一時的また局所的現象と言える。

 

 

 合法的な縁故渡航者が選んだ職場の75%は、工場に集中し、17%が土木建築、炭鉱・鉱山は合わせてもわずか、8%に過ぎない。朝鮮半島の人々にとって炭鉱・鉱山がいかに人気がない職場であるかが次の表から分かる。

 

A)労務動員によらない縁故渡航労働者が選ぶ職場の92%が、炭鉱鉱山以外であった

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(前掲『北海道と朝鮮人労働者』p54より)

 

B)労務動員で動員された朝鮮人の75%強が炭鉱鉱山に動員された。

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      (前掲『北海道と朝鮮人労働者』p55より)

            

          3、動員時における強制・拉致

労務動員は、39年9月からの募集に始まったがすぐに壁にぶつかった。そこで42年からはより官憲の関与を深めた官斡旋方式の動員が始まった。それもまた抵抗が激しくなりノルマを達成するのが難しくなったので、44年9月からの徴用がはじまった。こうして最初から政府の労務動員計画にはじまった動員だが、官憲の関与が深まるにつれ強制性も強まり、夜襲、誘出、人質的掠奪拉致がなされるようになる。こうした動員の実態には様々な資料と証言がある。

動員時の強制資料1)

例えば、鎌田沢一郎 カマダ サワイチロウ(元宇垣総督政策顧問、当時総督府機関紙「京城日報」社社長)は「もつともひどいのは労務の徴用である。戦争が次第に苛烈になるに従って、朝鮮にも志願兵制度が敷かれる一方、労務徴用者の割当が相当厳しくなつて来た。納得の上で応募させてゐたのでは、その予定数に仲々達しない。そこで郡とか面とかの労務係が深夜や早暁、突如男手のある家の寝込みを襲ひ、或ひは田畑で働いてゐる最中に、トラックを廻して何げなくそれに乗せ、かくてそれらで集団を編成して、北海道や九州の炭鉱へ送り込み、その責を果たすといふ乱暴なことをした。但(ただ)総督がそれまで強行せよと命じたわけではないが、上司の鼻息を窺ふ朝鮮出身の末端の官吏や公吏がやつてのけたのである。」(鎌田沢一郎『朝鮮新話』1950)

と南次郎総督時代の事を書いている。「寝込みを襲ひ、或ひは田畑で働いてゐる最中に、トラックを廻して何げなくそれに乗せ、かくてそれらで集団を編成して、北海道や九州の炭鉱へ送り込」
んだというのだ。

*(南次郎 第七代総督=1936年(昭和11年)8月5日~1942年(昭和17年)5月29日)(小磯國昭 第八代総督= 1942年(昭和17年)5月29日 ~1944年(昭和19年)7月22日)(阿部信行 第九代総督=1944年(昭和19年)7月24日 ~1945年(昭和20年)9月28日

これに対して、鄭大均氏は「この下りは強制連行論者によく引用される箇所ではあるが、傍線部分が引用されることはまずない(たとえば後述する『朝鮮人強制連行の記録』70頁)」と朴慶植を名指しで批判している。 (鄭大均 『在日・強制連行の神話』p112)

「引用される箇所」というのは上記「総督がそれまで強行せよと命じたわけではないが、上司の鼻息を窺ふ朝鮮出身の末端の官吏や公吏がやつてのけた」の部分である。

しかしこれは、引用しなくても特に問題があるとは思えない。なぜならすでに複数資料によって総督府の官僚たちが決して無罪でないことは明かだからだ。

例えば、総督府鉱工局労務課事務官の田原実は「半強制」を認識していたばかりではなく、「なおも強化する」ことを述べている。

(後述 終戦前後の朝鮮経済事情』では「有志で行く者は一人もない。」「それでトラックを持って行き、巡査を連れて行って、村からしょっぴいて来る」と回想している。)

動員時の強制資料2)

『大陸東洋経済』1943年12月1日掲載「座談会 朝鮮労務の決戦寄与力」 以上 外村大研究室より http://www.sumquick.com/tonomura/data.html )(座談会開催は 1943 年 11 月 9 日)

朝鮮総督府鉱工局労務課事務官の田原実は、同じく朝鮮総督府の文書課長であった山名酒喜男や朝鮮無煙炭労務主任今里新蔵らも出席する座談会で、

「従来の工場、鉱山の労務の充足状況を見ると、その九割までが自然流入で、あとの一割弱が斡旋だとか紹介所の紹介によっています。ところが今日では形勢一変して、募集は困難です。そこで官の力-官斡旋で充足の部面が、非常に殖えています。ところでこの官斡旋の仕方ですが、朝鮮の職業紹介所は各道に一カ所ぐらいしかなく組織も陣容も極めて貧弱ですから、一般行政機関たる府、郡、島を第一線機関として労務者の取りまとめをやっていますが、この取りまとめがひじょうに窮屈なので仕方なく半強制的にやっています。そのため輸送途中に逃げたり、せっかく山に伴われていっても逃走したり、あるいは紛議を起こすなどと、いう例が非常に多くなって困ります。しかし、それかといって徴用も今すぐにはできない事情にありますので、半強制的な供出は今後もなお強化してゆかなければなるまいと思っています。」とのべている

総督府鉱工局労務課事務官が「仕方なく半強制的にやっています」「半強制的な供出は今後もなお強化してゆかなければなるまいと思ってい」るのだというのだから、総督府は「半強制」を知っていたし、今後の強化を謀っていたのである。総督府はすでに見てきたように労務動員に協力した。また各郡や面に割振りした。割振られた各郡や面ではそのノルマを果たすために、強制的な行動をとった。それを担当の官僚たちも知っていた。

 

動員時の強制資料3)http://www.sumquick.com/tonomura/data/191025.pdf

 

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動員時の強制資料4)厚生事務次官松崎芳「勤労局長宛復命書」19450108

http://www.sumquick.com/tonomura/data/191025.pdf
「内地渡航を忌避する傾向」「面の人々は徴用を嫌って労務係を目の敵のように考えています」

原因は「送金僅少または皆無」「安否を確かめ得ず」

 

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動員時の強制資料5)「半島人移入雇傭ニ関スル件」1939-9-22『住友鉱業株式会社歌志内鉱業部史料』(北海道立図書館所蔵)

 住友鉱業株式会社歌志内鉱業部社員

「募集取締規則に基づく各社の募集従事者による募集ということになって居るが実務は・・・朝鮮官憲によって各道各郡各面に於いて強制供出する手筈になって居る・・・之を各社の募集従事者が詮衡する」

 (この史料は「朝鮮人強制連行方法とその強制性」守屋敬彦『季刊 戦争責任研究』2006年春号、朴慶植『戦時強制連行・労務管理政策(1)』所収P298-299などに掲載されている。)

 

動員時の強制資料6)1944年4月13日の《朝鮮総督府官報》

田中武雄(政務総監)の訓示

 

「官庁斡旋労務供出の実情を検討するに、労務に応ずべき者の志望の有無を無視して漫然下部行政機関に供出数を割当て、下部行政機関もまた概して強制供出を敢てし、かくして労働能率低下を招来しつつある欠陥は断じて是正せねばなりません」

 

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動員時の強制資料7)

日本炭鉱労働組合運動史編纂委員会編『日本炭鉱労働組合運動史第三集』(「昭和三四年春までの常磐地方並ひに全国的な炭鉱労働運動―常磐におけろ座談会記録」 昭和三三年四月)

 

「◇~朝鮮人労働者をひっぱってきた経過をもう少し話しますと、国の方の方針として労務者が足りない。でまあ朝鮮人労務者を積極的に募集しろということになり、朝鮮人の受け入れをするという炭坑は朝鮮人専門の募集人を任命し、これを朝鮮に派遣して一応募集の形をとって現地からひっぱって来たんですね。

◇~いや向うで徴用になっていたんだ。徴用したのを向うで集結して、それを労務係がうけとりに行ったんだ。」

 

「◇~今、一条さんの言ったことを具体的に経験したんですが私も実は朝鮮で炭坑の労務の募集係をやっとったんです。どういう経路でやるかというと、日本と同じだったんです。朝鮮の労務者は南鮮しかいないんですね。北鮮は工業地帯だからほとんどいない。すると南鮮では各道の道庁に常磐炭砿から何名ほしいからよこせと行く。と、道庁ではどこの郡に一番遊んでいるのがを知つているので郡に行く。郡から又村(面ということです)に夫々お前の所から何名というように命令する。すると、面長さんは大概日本人なんです。すると面長は責任を以って強制的に何月何日までにその人数をかりたてるんです。その家の長男であろうが何が構わない。それでこちらから日本の募集人が募集の書類を持っていくと、絶対です。募集係はそれを引率するだけです。ただ途中汽車からとびおりるのが多くてね。そういうわけだから、集まるわけです。

◇~大東亜戦争につつこんで男手がだんだん少くなると職業紹介所でも炭坑に人員の割当てをやったですね。職業紹介所から私何名か貰って来たおぼえがある。」(p26)

 

 

動員時の強制資料8)

終戦前後の朝鮮経済事情』大蔵省官房調査課金融財政事情研究会 1954年

(1937年から45年まで財務局長であった水田直昌の話、大蔵省官房調査課員が採談した)

「内地に連れられて行ったら生きているのか死んでいるかわからぬ…〔戦争中、石炭は〕みんな朝鮮人が掘っておった。ですから、朝鮮人労務なかりせばそれはできなかったわけです。だから絶対必要なものだったのです。しかしこれも有志で行く者は一人もない。何となれば、日本に行ったらどうなるかわからぬということで、結局行くのはいやだ…それでトラックを持って行き、巡査を連れて行って、村からしょっぴいて来るわけです。そういうことをしたわけです。…一般の民衆は、米をとられ、人間をとられ、真鍮の食器を取上げられて戦争をのろう気持ちが強い、それを警察の力でまあまあ何とかやっていました。」

 

 

動員時の強制資料9)

「復命書」

命を受け、内務省管理局嘱託の小暮泰用が、朝鮮ヘ出張し作成した調査報告書

1944年7月31日、管理局長竹内德治宛

 

(ハ)、動員の実情

  徴用は別として其の他如何なる方法に依るも出動は全く拉致同様な状態である。

  其れは若し事前に於て之を知らせば皆逃亡するからである、そこで夜襲、誘出、其
の他各種の方策を講じて人質的掠奪拉致の事例が多くなるのである、何故に事前に知
らせれば彼等は逃亡するか、要するにそこには彼らを精神的に惹付ける何物もなかった
ことから生ずるものと思はれる、内鮮を通じて労務管理の拙悪せつあく)極まることは往々にして彼等の身心を破壊することのみならず残留家族の生活困難乃至破滅が屡々
(しばしば)あったからである。

  殊に西北朝鮮地方の労務管理は全く御話にならない程惨酷である、故に彼等は寧ろ
軍関係の事業に徴用されるのを希望する程である。

  斯くて朝鮮内の労務規制は全く予期の成績を挙げてゐない、如何にして円満に出動
させるか、如何にして逃亡を防止するかが朝鮮内に於ける労務規制の焦点となってゐる
現状である。

 

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恐ろしい事だがこの報告書には、労務動員された結果、家庭が破壊される様子が描かれている。



 9)外交史料館茗荷谷文書I59

「官斡旋ハ徴用ニ準ジ官庁ノ責任ニ於テ動員スルモノナリ」(1944年当時の内務省管理局民政課「朝鮮労務事情」)